ルキアは十三番隊の隊舎で目を覚ますと、ぼんやりと周囲を見回した。
朽木の家に預けられて数日、必要以上の使用人と壊れ物を守るような扱いに耐えかね、無理を言ってコンと二人、一護の部屋に戻ってきてしまった。義兄には申し訳ない気がするが、半刻毎に使用人に声をかけられ、しかも一護の部屋のように好き勝手出来ない生活は窮屈だった。義妹の心中を察したのか、義兄は使用人を呼ぶための伝令神機を持ち歩くことを条件に、ルキアの引越しを認めた。
ボタンを押せば、ワンコールでどこからともなく使用人が現れる。そしてコンもいる。一護が居なくとも、この部屋での生活に不便はなかった。
しばらく寝起きの目を擦っていると、不意にざわついた気配がした。何事か、とすっかり眠気の覚めた頭で、襖を開けて外に出た。
「お久しぶりっス朽木サン。お届け物っス」
死覇装すら着ていない不審人物が堂々と、廊下の真ん中で笑っていた。後ろには、死神が大量に続いていた。しかし誰も彼の歩みは止めない。唐突にやってきた不審人物は、自分の歩みを妨げる者を、薄笑いを浮かべたまま、霊圧で容赦無く威嚇した。そして、不審人物が肩に担いだ大きな荷物に、言葉を失った死神達は、ただその後を従者のように追い続けることしか出来なかった。
「な……っ……!」
ルキアの前で立ち止まると、浦原はにやりと笑って肩に担いでいた荷物を放り投げた。すなわち、浦原に担がれていることにも気付かず、この騒ぎにも気付かず、ひたすら眠りこけている死体のような黒崎一護を、である。男一人分の重量は、勿論ルキアに抱えきれるはずも無く、一護とルキアは諸共に床に倒れ込んだ。
一護の下で潰されているルキアが息をしようともがいていると、眠っていたはずの一護が鋭い動きで上体を起こした。戸惑うルキアにも構わず、押し倒した形になっているルキアの襟元を掴んで引き寄せると、顔を近づけて宣言した。
「勝ったぞ!」
「……そうか」
それだけを言って、一護は再び眠りに落ちた。今の出来事は全て、無意識の行動のようだった。ルキアが苦笑していると、不意に襟元にかかったままの手に力が込められた。みしり、と音がしたのは、一護の霊圧が歪んだ音だっただろうか。
「よう、死神」
再び、ゆっくりと顔を上げた一護は、見たことが無い顔をしていた。白と黒の反転した目に、歪んだ笑いが張り付いている。ルキアは目を見張った。
「怯えてんのか?」
一護の顔を、少しずつ白い仮面が覆い始める。周りにいる誰かが悲鳴を上げたのが、遠い世界の事のようだった。
一護の変貌は、おそろしかった。けれど身体が、意志に反して勝手に動いた。
両の手を伸ばし、ルキアは白い仮面ごと、オレンジ色の頭を抱き締めた。この姿が何なのか、この存在が何なのかわからない。それでも、気付けば口が勝手に言葉を紡いでいた。何故その言葉を選んだのか、自分でも分からなかった。そしてその響きは、自分で驚くほど柔らかなものだった。
「ありがとう。……もう、眠れ」
労るように優しく、ルキアは一護の髪を梳いた。それすら、意図して行ったものではなかった。ただ身体とからっぽになってしまったはずの己の魂が、勝手にこの異形の存在を慈しんでいた。
「ありがとう」
もう一度呟いて微笑むと、ルキアは一護を抱き締める両の腕に力を込めた。すると耳の奥に響く、雨の音と子供の泣き声が一層大きくなった。その瞬間、ルキアはこの異形もずっと泣いていたのだと知った。
舌打ちの音を残し、一護の身体から再び力が抜ける。形を作りかけていた仮面は、ほろほろと形を崩し、消えていった。
「じゃ、確かに届けましたんで」
全てを見届けた浦原が、あっさりと踵を返した。もう帰るのか、と問えば、怖いヒトが来るんで、とへらりと笑われた。その意味は分からなかったが、ルキアは笑って浦原に礼を言った。
「浦原。ありがとう」
「ハイハイ。またドーゾ」
軽口を叩きながら、ソウルソサエティを追放されたはずの男は、堂々とその場を後にした。結局最後まで、その歩みを止められる者は居なかった。
「ルキアさん!?何してるんですか!?」
叫びながら駆け寄ってきたのは、薬を届けに来てくれた花太郎だった。意識のない一護の身体はルキアに覆い被さり、傍目には一護がルキアを押し倒しているように見える。
ルキアはくすくす笑いながら、頭の先で聞こえた声の方向を見た。真上を見るように、思い切り反らした視界に、戸惑っている花太郎の姿が逆さまに映った。
「花太郎。丁度いい。この莫迦をどかして、ついでに四番隊に運んでくれないか」
「は、はあ……」
ルキアの上から一護をどかせば、息苦しさから解放されたルキアはひとつ深呼吸をした。そして上体を起こすと、眠り続ける一護の顔を見下ろして微笑んだ。
その瞬間、ルキアに湧き上がった感情は、言葉にはならなかった。
「おかえり、一護」
言い尽くせぬ感情の代わりに、ルキアは簡単な挨拶の言葉を呟いた。その様子に花太郎も周囲の死神達も微笑み、一護を移動させようと皆が力を合わせようとしたところで、唐突に爆発音が炸裂した。
「ヒイッ!?ぶ、無事ですかルキアさん!?」
「ぶ、無事だが……何が起きた?」
爆発による煙が晴れると、そこには一人の小柄な死神が立っていた。死神は、血走った目で花太郎を睨んだ。
「そ、砕蜂隊長……」
「あの男はどこにいる!?」
「あ、あっちです……」
花太郎が指した方向を一瞥すると、砕蜂は次の瞬間、風のように消えた。その光景に、事情を知らぬルキアも、浦原の言っていた『怖いヒト』の正体に思い至った。
嵐のようにかき消された再会の余韻に、ルキアは思わず吹き出した。それは伝染病のように瞬く間に広がり、周囲は高らかな笑い声に満ちた。そんな中、当事者だけが何も知らない顔で、くうくうと眠り続けていた。
部屋に、夜の風が吹き込んだ。風がそっと頬を撫でる感触に、ルキアは目を開いた。
少し身体を起こして確認すれば、開いた襖のその先に、黒いマントを羽織った男が立っていた。それは、かつての強欲商人ではない。頭に被った布の下から覗く髪の色は、月明かりの下でも燦然と輝くオレンジ色だった。
何かの使者のように、本来なら四番隊で眠っているはずの一護は手を伸ばした。その表情は、月明かりが逆光になって読むことが出来なかった。
「行くぞ」
「ああ」
この状況を問い質すよりも先に、身体が動いていた。躊躇なくその手を取り、ルキアは立ち上がった。部屋を出る瞬間、もうひとつの声がした。
「帰ってこいよ」
「わかってる」
コンはふてくされたように、こちらを見ようとはしなかった。一護はコンの言葉にはっきりと頷くと、コンは毛布を顔の上まで被り、これ以上の言葉はいらないとばかりに小さく丸まった。
一護の脱いだマントを被せられ、ルキアはそのまま一護の背に乗った。大きな布が一護をも包むように、一護の背でなるべく密着しながら、ルキアはぼんやりと変わりゆく景色を見ていた。
一護は何も言わないが、どこに行こうとしているのか、ルキアにはわかっていた。
行き先は、墓場だ。私が希望を託した場所だ。
けれど、その先に何が待っているのか、ルキアには分からなかった。
程なくして、一護は目的の場所に降り立った。それはルキアの予想通り、かつて手紙を掘り起こした墓の場所だった。
音のない夜だった。まるで他の音が消えてしまったかのように、互いの呼吸音しか聞こえてはこなかった。
一護は無言で刀を抜いた。かつて浦原喜助がそうしたように、一護の持つ刀が、自分の心臓を捉えるのを、ルキアは瞬きもせず見守った。
(幕は、貴様が引け)
ルキアは、かつて自分が漏らした言葉を思い出していた。そして一護は、その約束を違えること無く果たしに来てくれたのだとルキアは思った。
彼に、何を伝えればいいのだろう。
ありがとうの言葉すら、ルキアの口からは出てこなかった。胸の中に轟く感情は、感謝だけではなかった。律儀に、不器用に自分との約束を果たしに来た存在を、ありがとうと労って優しく抱き締めたかった。同時に莫迦者と罵りたくもあった。微笑みたかったし、怒りだしたかった。そして、共に泣きたかった。胸に溢れる、この切なさは何と呼ぶのだろう。
一護は無言で、月を背にして佇んでいた。背後から彼を照らす、月の姿が途方もなく美しかった。
「一護。月が綺麗だな」
やっとの思いでルキアが口にしたのは、その一言だけだった。息を吸い込むその仕草だけで、一護がひそやかに笑ったのを、ルキアは理解した。
「そうだな」
月に背を向けたまま、一護は同意した。それが心からの同意だと悟り、ルキアは微笑んだ。
その瞬間には、一護の斬魄刀がルキアの心臓を真っ直ぐに貫いていた。
ルキアが地面に崩れ落ちるのと同時に、不思議なことに、刺し貫いた側である一護もその場に倒れ込んだ。
霞む視界の中、ルキアは決して目を閉じようとはしなかった。消えゆく世界に焼き付いたのは、オレンジ色と、うつくしい月のかたち。