一護は、爆風の中心にいた。視界を阻む霊圧の風に、思わず目を閉じると、強い力で肩を掴まれた。それは、虚の腕だった。目をこじ開ければ、笑っている虚の顔だけが視界に写り込んだ。一護は、虚を貫いている刀を引き抜こうとした。しかし、それは虚の手に阻まれた。一護の肩を掴んでいるのとは逆の手で、虚は己を貫く刀を自ら引き寄せた。
引き寄せた分だけ近付いた距離に、一護の耳元で虚が囁く。
「全部守れるなんて、本気で思ってんのか?守り疲れて、もう涙も出ないのに?」
本当に全てを守ることなどできはしないと、一護にだってわかっている。けれど、嘘つきと罵られようと、出来ないと嘲られようと、ただ叫ばなければならなかった。
「守るに決まってんだろ!」
「面白ぇ」
虚が、口の端を吊り上げた。その瞬間、霊圧が爆発した。更なる爆風に、一護の視界から虚が完全に消えた。立っているのか倒れているのかも分からなくなる霊圧の嵐の中、一護は虚の囁く声を確かに聞いた。
「やってみろ。見届けてやるよ。……お前が死ぬまで」
「負けねぇよ。いつまで経っても、もうお前には負けねぇ。だからもう、ずっと寝てろ」
内なる虚が恐ろしければ、それすら叩き潰すまで強くなればいい。
もうずっと昔、理不尽にそう叫んだ声があった。その言葉を、今ようやく守れるのだと一護は知った。そしてその瞬間に、今まで自分を導いてきたものが何だったのか一護は悟った。
(立て、一護。立ち上がり、そして進め)
空を厚い雲が覆い、雨の降りしきる世界の中に、天啓のように彼女の言葉が閃く。自分はいつも、その光を頼りに走っていた。もうずっと前から。自分が迷わず走れたのは、もうひとつの世界の中に、煌々と光る道標があったからなのだと、一護は理解した。
その瞬間、霊圧が生き物のように蠢き、一護を包み込んだ。思わず閉じてしまった目を開けば、一護は全く唐突に、別の場所へと放り出されていた。
そこには、朽木ルキアが立っていた。
ルキアの姿は、今よりも少し幼い。これとよく似た情景を、一護は見たことがあった。
ルキアの前に、今と寸分違わぬ姿の自分がいた。穏やかな沈黙が流れ、自分達はどちらともなく微笑みあった。柔らかな風が、朽木ルキアの髪を揺らす。
間違えるはずはない。突然一護の目の前で再生されたのは、死神代行最後の日の光景だった。
「じゃあな」
「ああ」
呆気ない程簡単な別れの言葉。そしてこの後自分が何を言ったのか、一護はもう知っている。
「……俺がそっち行って隊長になったら、お前を副隊長にしてやるよ」
その言葉は、かつての自分ではなく、昔の光景を見守っていたはずの、自分自身の口から転がり出た。
足りない。いくら強くなってもきっと足りない。守りたいものがたくさんある。人間も魂魄も死神も、全てを守る地位に就くには、まだ強さが足りない。
気付けば、かつての朽木ルキアが目の前で笑っていた。彼女にしては珍しい、どこかはにかんだ笑顔を、一護は間近で見つめていた。微笑んだ彼女が、呆れたような表情を取り繕って、また貴様のお守りをしなければならんのか、と呟いた。
幾つかの言葉を挟み、ルキアは少し息を吸い込んだ。
「仕方ない……待っておいてやる」
視線が絡み、約束は成された。風が吹き、ルキアは目を伏せた。ルキアの髪が風に舞う様を見ながら、一護はこれが、かつて見た朽木ルキアの記憶ではなく、封印されていた自分自身の記憶なのだとようやく悟った。
ルキアの言葉と共に、一護の視界は急速に白く染まった。記憶の封印が解かれ、霊圧が爆発した。
(やって見せろ、相棒)
霊圧の轟音の中で、聞こえた声は幻聴だったのかもしれない。爆風が晴れ、鮮明になった視界は、先程までと何も変わらぬ浦原商店の地下室だった。しかしそこには、虚の姿は無かった。
一護の視線の先には、黒いコート姿の男が一人、立っていた。その姿を見るのはあまりに久々で、一護は呆然と口を開いていた。
「……オッサン」
「長かった」
斬月は無表情のまま、ぽつりと呟いた。名を呼ばれずとも、精神世界に降り注ぐ雨に一人打たれ続けようとも耐え続け、そして自分の主の力が封印されるという理不尽にさえ耐え抜いた斬魄刀の、ただ一言の愚痴だった。
「ごめん」
一護は素直に謝り、目を伏せた。彼にだけは、どう償えばいいものか、一護にもわかりかねていた。
「気にするな」
視線を上げれば、思いがけず晴れ晴れとした顔で斬月は微笑んでいた。無愛想な己の斬魄刀の見せる珍しい笑顔に呆けていると、不意に真顔に戻った斬月が、鋭く上を睨んだ。
「皆、守るのだったな」
「ああ」
彼女とは違う、彼もまたかけがえの無い相棒だ。馴染んだ刀の柄を、はじめて死神になった時のようにしっかりと握り締め、一護は上へと跳んだ。
浦原商店の外では、戦闘が続いていた。一護の揺れる霊圧が際限なく虚を呼び寄せているが、全てが浦原商店へと向かってくるのは幸運だった。虚を捜して動き回る必要も、人間が巻き込まれる心配をする必要もない。
一護の霊圧が、再び大きく揺れた。その瞬間、ガラスの罅が広がるように、割れ目が空に広がった。
「……二十六、二十七!」
声に少し焦りの色を滲ませて、テッサイが叫ぶ。浦原の言う三十までの結界が壊れるまで、あと3つ。この虚達を相手にしながら、一護の虚まで相手にしていては勝ち目がなかった。
「喜助、キリがないぞ」
一薙ぎで左右二体の虚を粉砕した夜一は、それを目で追うこともせず、正面の虚を迎撃した。その横では、ジン太が別の虚の仮面に、無敵鉄棍をめり込ませていた。ウルルは既に大砲を捨て、素手で虚に殴りかかっている。
店員総出で虚を退治しても、未だ虚の数は減らずにいた。空の裂け目を通り、倒したそばから、次々と現れる。
霊圧の揺れに呼応するように広がった裂け目から、新たな虚の群れが現れた。
「全員、一旦退いて下さい!……ウルル!」
浦原の指示が飛ぶよりも一瞬早く、ウルルは前だけを見据えたまま、虚の群れの中に単身で突っ込んだ。目の前の虚は叩き潰したものの、左右からウルルを捉えようとする虚の爪に、浦原もまた、虚の群れの中に突入した。
ドォン!
人間には決して聞こえぬ爆音が響いた。霊圧の煙が晴れると、そこに大虚はもう一体もいなかった。
「何やってんだ、アンタらしくもねえ」
大虚を一瞬で屠った死神が、背後に庇った浦原の方を振り向いて悪戯気に笑った。血霞の盾でウルルを庇っていた浦原は、無意識に口の端を吊り上げると、軽口を叩くようにテッサイに問いかけた。
「テッサイ。結界、幾つ壊れました?」
「二十九!」
「やれやれ……ギリギリっスねえ。黒崎サン。ご無事で何より」
「おう」
一護は素直に応えた。その姿に、浦原商店の店員達は知らず笑みを零した。
平穏を取り戻した世界に、空の裂け目から溢れていた虚は嘘のように消え失せた。
「じゃ、皆で空のヒビ割れ、補修しますか」
「御意!」
どこからともなく空を補修するコテを取り出したテッサイが、ジン太とウルルにきびきびと指示を与えた。その頃にはウルルもすっかりいつもの表情を取り戻していた。
その様を眺めながら、一護は口を開いた。心の中に残っている恨みを吐き出さなければいけない相手が、一人だけいた。
「浦原さん。あのクソ親父に伝言頼む」
「報酬は?」
「あのヒゲからいくらでも取ってけ」
「了解っス。内容は?」
「次会ったら、ぶっ飛ばす!」
自分にとって母の仇ということは、父親にとっては妻の仇だ。仇を討ちたいという気持ちはわかる。……だがしかし、自分の決意はどうなる。
その他諸々、ずっと自分に正体を告げずにいた父への文句は尽きない。
とりあえず、あのヒゲは自分にボコボコにされるべきだと思う。
「必ず伝えます……って、アララ」
「何だ、間抜けな顔じゃの」
浦原は笑って請け負った。しかしその言葉を聞くよりも先に、一護は崩れ落ちていた。
近寄ってきた夜一が、一護の平和そうな寝顔を見て吹き出した。一護が完全に眠りこけていることを確認してから、夜一は背後を見ずに呟いた。含み笑いをして、浦原もそれに続いた。
「覚悟しておくことじゃな」
「ですねえ」
一瞬、今まで誰もいなかったはずの場所に、ある死神の霊圧が影を落とした。今までずっと事の顛末を見守っていたその影は、夜一の言葉に怯えるようにびくりと揺れると、それでもどこか楽しそうに消えていった。
「お疲れ様っス」
浦原は、柔らかく笑って弟子の頭を撫でた。起きていれば真っ赤になって抵抗していたに違いない弟子は、浦原の子供扱いにも気付かず、ぐっすりと眠りこけている。
それを見ていた夜一はにやりと口の端を吊り上げると、本気としか思えない声音で、顔に落書きでもしておくか?と浦原に提案した。