筋肉隆々の大男が、盆の上に湯のみをのせて、浦原商店店長の自室を開けた。部屋の中でぼんやりと煙管を弄んでいる部屋の主に、無言で頭を下げるその表情は固い。
緑茶の入った湯のみを差し出し、テッサイはたまらず口を開いた。普段と変わらぬ日常を営みながら、この時代に取り残されたような駄菓子屋は、限界まで張り詰めた糸を見つめるような緊張感に包まれていた。
「もう三日です」
「まだ三日っスよ」
浦原は、冷静に指摘した。あの弟子が真実を知らぬまま過ごした期間に比べれば、三日間という期間は短い。彼がまだ少年だった頃からの因縁と決別するのに、どれだけの時間がかかるのか誰にも分かりはしなかった。
浦原とテッサイは、無言でそのまま霊圧の気配を探った。幾重もの結界の中、白と黒の気配は相変わらず拮抗している。止まること無く刻一刻と変わり続ける白と黒の霊圧の残像に、テッサイは眉をひそめた。
「信じるしかないじゃろ」
投げやりに呟いたのは、いつの間にか現れた黒猫だった。もう、この中の誰の手にも負えない事態になっていることは明らかで、夜一はひとつ溜息を吐いた。
「希望なんて、ひどいこと言いますよね」
「何じゃ、やはり盗み聞きしておったのか」
「勿論。でも、からかう気も起きませんでしたよ。全く、アタシはこんな呪いみたいな手紙だったのに」
「諦めろ。貴様は希望と呼ばれるガラではあるまい」
「ま、確かに。夜一サンの言う通り」
ずっと手の中で弄んでいた煙管に、思い立ったように口をつけた浦原は、ふうと煙を吐き出した。煙は、開け放した障子の隙間からゆらりと外へ逃れた。その先には、目を灼くほど青く晴れ渡った空があった。その空を見て目を細めると、浦原もまた、諦めたように苦々しく呟いた。あまりに不似合いな言葉を吐いている自覚はあった。神だの運命だのの類は、弱いものの夢見る幻だと、彼がまだ16歳だった頃に悟ってしまっている。
「希望を信じるしか、ないんでしょう」
煙管を深く吸い込み、もう一度空に向かって煙を吐いた。濁った煙は、浦原の最後の抵抗のように、晴れ渡った空へと溶けていった。
「どうして戻ってきた?ようやく身体を明け渡す気になったか?」
顔を歪め、虚が嘲った。無言でその刃を受け止め、一護は答える代わりに虚を睨んだ。振りかぶり、虚の首を狙った一撃は、あっさりと阻まれた。けれど同様に、自分に襲いかかる刃を、一護も防いでいた。
一進一退の攻防を、もう時間の感覚すら麻痺する程に、繰り返し続けている。
虚の吐くどんな言葉も、一護の心を揺らしはしなかった。心の中には、傍迷惑な元同居人の、傍迷惑で一方的な命令があるだけだった。
(行け、黒崎一護)
揺れてはならない。目を、逸らしてはならない。一護がもう一度虚を睨むと、虚は顔を歪め、舌打ちした。
「気に食わねえな。その面」
「気に入ってもらいたくもねえよ」
同じようにいびつな笑顔で、一護も笑った。斬撃を受け止め、不自然な程近い顔の距離で、耳の中に音をひとつずつ叩き込むように虚は尋ねた。
「……どうして、強くなる?」
それは、かつて答えられなかった問い。
同時に腹を蹴られ、一護は岩に激突した。すかさず襲い来る斬撃を防いで、一護はぎろりと前を見据えた。
「答えろ。何故、強くなる?」
岩に激突した衝撃か、口の中に新しい血の味が広がる。それを吐き出すと、一護は目の前の虚に躊躇い無く斬撃を打ち込んだ。
頭の中に、虚の声が木霊する。母を殺した虚はもういない。強くなると誓ったあの時の虚は、もういない。
渾身の斬撃は、虚の刀に防がれた。反撃を躱しながら、一護はもう一度斬撃を放った。
虚の声と一緒に、頭の中でもう一つ、響く声があった。いつでも一護を導いたその声は、はっきりと一護に尋ねた。
(一護。この世界は好きか?)
一護は、今まであった全てのことを思い出していた。人間として生まれ、母親が死に、朽木ルキアに出会い、死神の力を得た。もうひとつの世界を知った。知らず、一護は笑っていた。泣いてしまった子供をなだめるような口調で小さく呟いた。
「心配すんな。……嫌いじゃねえよ」
ずっとずっと、力が欲しかった。思いがけず守るための力を手に入れた後、否応なく戦いに巻き込まれることになっても、この力を手放すことを一度も考えはしなかった。
昔は、たった一人すら守れなかった。けれど力を手に入れて、たくさんの人間を守れるようになった。そして今では、きっともっと沢山のものを守ることが出来る。
一護は、15歳の時に自分にもたらされた世界を思い出した。その世界の中心に立っていたのは、一人の、小柄な死神だった。
もうひとつの世界を、自分は嫌ってはいなかった。だからもうひとつの世界に住む存在を、守りたいと思った。人間だけではなく、さ迷う魂魄だけではなく、死神すら、守りたいと一護は思った。
一護の脳裏に閃いたのは、朽木ルキアの見せた、死神代行最後の日だった。
あの時、本当に自分が死んだ後のことを考えていたわけではなかった。ただぼんやりと、漠然とした将来を考えていた。いつか、いつの日か。
あの時、漠然と守りたいと思ったものは何だったか。そしてそれは、何故だったか。
一護は、虚が自分の記憶を消した理由にようやく思い至った。
それは、自分がそれと知らぬまま、答えを手にしていたからだった。母を失った自分の世界ではなく、彼女によって与えられた、もう一つの世界の中に。
「守りたいものがまた増えた。……いくら強くても、足りねえよ」
朽木ルキアに与えられた世界を、自分は嫌ってなどいなかった。その世界にもまた、たくさんの仲間がいた。その全てを、守りたいと思った。できることならば、もう一度彼女と一緒に、世界を駆け抜けたかった。
「守れやしねえよ。……わかってんだろ?誰が大虚を呼んでんのか。お前だ」
虚が突きつけた言葉に、一護は一瞬息を飲んだ。けれど、引くわけにはいかない。虚の言う通り、はじめから疑い、やがて確信に変わっていたことだった。自分がまだ16歳だった頃、この虚に身体を支配される恐怖に怯えていた頃、全く同じことが起こっていた。
はじめは、あの虚を乗り越えたと思っていた。だから、自分が原因だと考えたくは無かった。けれど実際は、乗り越えてなどいなかった。
揺らぎかけた心に蘇るのは、彼女の記憶。記憶の中の彼女の言葉をなぞるように、一護は噛みしめるように呟いた。
「それが何だ」
自分のせいで傷つけた人なら、もうたくさん知っている。自分の為に死んだ人も、知っている。けれど、それでも前を向けと、命令する存在を知っている。
「俺が呼んだなら、俺が全部倒してやるよ!全部、全部俺が守ってやる!」
一護は刀を握り締め、虚に向かって振り下ろした。漆黒の刀は、純白の死覇装を真っ直ぐに貫いた。
その瞬間、霊圧が爆発した。爆発の余波は、地上にも届いた。地面を揺らす細かな振動に、はじめに顔を上げたのはテッサイだった。
渾身の力で織り上げた結界が、予測以上の溢れる霊圧に耐えかねて崩壊しつつある。ひとつ、またひとつ。鋭く声を上げたのは、夜一だった。
「幾つ壊れた!?」
「……十二、いえ、十五!今、一六個目が壊れました!」
「喜助!」
浦原を呼んだ瞬間、夜一は人間の形に戻っていた。衣服を纏っていないことなど気に留めず、空を睨んだ。
その視線の先では、空が不気味にひび割れつつあった。そしてその中から、白い仮面を被った異形の姿が覗いていた。
「呼ばれたみたいっスね……」
「全て、こちらに向かって来るならば手間が省ける」
結界越しに、世界に響いた霊圧は、撒き餌のように大虚を呼んだ。幾つもの虚が、ひたりとこちらに視線を据えている。
襖の外には、ジン太とウルルも立っていた。手には既に、武器を握っている。強張った顔は、今この場所に何が起きているのか、既に知っているようだった。
「全員、迎撃の準備を。全部叩きます。……黒崎サンについては、三十個目が壊れるまで待ちます。テッサイ。どれくらい持ちそうっスか?」
「この感触だと……あと一刻程かと……」
遠くで霊圧が破裂する音を、その場に居た全員が確かに聞いた。強固な結界越しにも伝わる霊圧の揺らぎに、夜一は眉をひそめると、その場にあった装束を身につけた。
浦原も杖を握り、立ち上がった。こちらを見つめている虚をぐるりと見渡し、小さく息を吐いた。
「全く。本日貸切っスよ」
唯一の客は、現在地下で戦闘中だ。誰にも彼の戦いを邪魔させるわけにはいかなかった。
浦原は杖から紅姫を引き抜き、鋭く宙を睨んだ。
それを合図とするかのように、大虚の群れが浦原商店を目指して、現世に身体を滑り込ませた。