風が、穏やかに吹いている。夜更けに真っ暗な部屋の中で、ルキアはぼんやりと目を開けた。コンを起こさぬようにそっと身を起こし、やはり何も見えない部屋の中を見渡す。
呼んでいる。誰かが、呼んでいる。
導かれるように、手探りで窓の鍵を探り当て、ほんの少しだけ窓を開けた。僅かにできた隙間から入り込んだ夜風が、そっとルキアの頬を撫でる。ルキアは手を伸ばし、窓の隙間から外へと指先を踊らせた。そして僅かに出した指先を、一瞬だけ風とは別のものが掠めた。
ルキアは手を部屋の中に戻すと、指先を包むように手を握り締め、もう片方の手で包みそっと胸に抱いた。
自分が何に触れたのか、そして今自分に何が起きたのか、ルキアにははっきりとわかった。
触れたのは、もう一つの世界で、その象徴の指先。そして、触れた瞬間に託されたのは、はっきりとした意志。
「莫迦者」
ルキアは小さく呟き、唇を噛んだ。窓の向こうで、誰かがひそやかに笑った気配がある。そしてその気配は、すぐに消えてしまった。彼の気配が消えてからも、ルキアはずっと指先を握り締め、胸に抱いていた。一瞬触れ合った指先に乗せて、彼が伝えた伝言はシンプルだ。
必ず帰る。
ルキアは目を閉じ、肌を優しく撫でる風を感じていた。
「……ネエさん?」
「ああ、何でもない」
夜風の入る気配に、コンが目を覚ました。ルキアの顔を確認するため、枕元の小さな証明をつければ、ルキアの周りがぼんやりとセピア色の薄明かりに染まった。
ルキアは握り締めた手を解き、枕元に置かれた、かつての自分が書いた手紙を手に取った。それを開けば、最後に、何重にも塗りつぶされた一文があった。別れの言葉よりも後、最後に呟くように添えられ、そして念入りに消されてしまった文字は、端が僅かに見えるだけで、とても読むことはできない。その部分を指先で無意識に撫でると、ルキアの頭の中に、僅かに見えた文字の端から、完全な文章が浮かび上がった。消えてしまった言葉のあまりの罪深さに、ルキアは思わず口を抑えた。
『私を、忘れないでくれ』
自分が用意したシナリオとは真逆の、言い出せなかった本当の気持ち。強欲で、浅ましい執念。
「ネエさん?」
「……コン。今から起こることは、一護には内緒だ」
様子のおかしいルキアを気遣うコンに一言言い置くと、ルキアは手紙を握ったまま、静かに涙を流した。彼と触れ合った指先だけが、火傷をしたように熱く、胸を焦がす。
「夜一さん」
「……なんじゃ。もう良いのか」
「ああ」
満足そうに笑う一護に、夜一はつまらん、と息を吐いた。気配は残してはいなかったが、夜一は一護の行動の一部始終を見物していた。
別に今更この二人に何かあるとは思わなかったが、この期に及んで気配を交換するだけで終わった別れに、少しばかりの恨み言を言いたい気持ちはある。何の為に、自分は一護に時間を与えたのか、と。
「まあ、らしいと言えば、らしいか」
「はあ?」
わかっていない一護に、夜一は苦笑した。指先をそっと触れ合わせるだけで、別れは終わったのだと信じてしまえる、その強さが夜一には眩しかった。
「行くぞ。喜助が待っておる」
「わかってる」
一護が、真っ直ぐ前を睨み据えた。その視線の強さに、知らず口の端を持ち上げると、夜一は疾走した。
程なく、夜一と一護は空座町へと降り立った。数カ月ぶりの故郷に、一護は複雑な思いで周囲を見渡した。僅か数カ月の間に、一護の世界は変貌してしまった。それは、かつて彼女と初めて出会った時とよく似ていた。
「イラッシャイマセ、黒崎サン」
一護の思考を遮るかのように、よく知っている声が響いた。そこには、浦原商店の店主が、いつもの笑みを顔に張り付けて一護を待ち受けていた。
彼の姿を認めると、一護はずかずかと歩き、彼の目の前でぴたりと止まった。そして、おもむろに浦原の衣服に手を伸ばした。
「脱げ!」
「ギャー!黒崎サンのエッチ!アタシそんな趣味は……」
「いいから脱げ!夜一さん!手伝ってくれ!」
「楽しそうじゃな。任せろ」
「あ、ちょっとヒドイ!夜一サン痛い!引っ掻くのヤメテー!」
がりりと浦原のむき出しの足に夜一が爪を立てれば、浦原の抵抗が弱まった。その隙に一護の手が浦原の襟元を緩めれば、胸から腹にかけての深く生々しい、大きな傷跡が晒された。月夜に晒された古傷の予想外の深さと大きさに、一護は思わず息を呑んだ。それを見た浦原は、不意に真顔に戻ると、軽く息を吐いた。
「だからやめてって言ったのに」
「……それ、俺がつけたんだよな」
噛みしめるような一護の言葉に、浦原は片眉を吊り上げた。
「こんなモノまで、一々受け止める必要は無いんスよ」
突き放す口調が、実は自分を気遣うものだと、一護はとっくに気付いている。けれど、一護には目を逸らすことは許されなかった。『真っ直ぐに前を向いていろ』というふざけた命令を、上司から受けてしまっている。
「……悪かった」
「全く。どこまでお人好しなんスか」
謝らせてすらくれないのかと、浦原が苦笑した。浦原は、勿論6月17日にあった出来事を知っている。けれどそこにあった感情を理解してはいなかった。この傷は、自業自得どころか、浦原にとっては己の罪の証でしか無かった。
浦原は一護を見た。少し前に会ったばかりの弟子は、あの時には無かった光を瞳の中に湛えていた。それは、希望が無事に彼を導いた証明だった。
「行きましょう。準備は出来てます」
「ああ」
浦原の先導で、一護は浦原商店に足を踏み入れた。地下の『勉強部屋』への入り口は、数十年前と変わらずそこにあった。
地下室に降り立つと、浦原はどこからとも無く、人形のようなものを取り出した。その人形の名を、一護は知っている。転神体はかつて、己の卍解の修行に使った道具だった。
「あとは、一人にしてくれ」
「テッサイ渾身の結界が張ってあります。気兼ねなく暴れて下さい。……キミが負けても、速やかに処分します。こっちも、心配要りません」
「サンキュ」
「……一護」
たまらず、夜一は一護を呼んだ。一護は夜一を気遣うように笑った。心配するなとでもいうように。
「もし、俺が死んだらルキアに伝えてくれ。『お前の魂は救われた』って」
それは、ルキアの命令を遂行するという決意だった。たとえ死んでも、前を向き続けると。死ぬその瞬間まで、決して屈することはないのだと。かつて朽木ルキアの愛した世界は、もう決して歪んだりはしない。ルキアの魂は、救われる。
「嫌っスよ。誰に報酬貰えばいいんスか」
「ひっでえな。死ねねえじゃねえか」
心底嫌そうに言い放った浦原に、一護が苦笑した。そして人形に向きあうと、かつてのように迷いなく斬魄刀で貫いた。
夜一と浦原はその瞬間、瞬歩で飛び退いていた。そして結界の外側から、その光景を見守った。霊圧の爆風の中心にいるのは、転神体に斬魄刀を突き刺した一護だけではなかった。
かつて卍解を習得した時、そこには斬月が具現化した。そして今、強制的に具現化されたのは、一護の姿を写し取ったような白い死覇装を纏った、虚の姿だった。
「久しぶりだな」
一護の前に現れた虚は、口を歪めて笑った。一護は無言で己の持つ斬月を振り上げると、虚に斬りつけた。狂ったように笑いながら、虚はその攻撃をあっさりと受け止めた。そしてすぐに反撃に転じ、白い死神と黒い死神の戦闘が始まった。
「行きましょう」
「ああ」
浦原は、薄情なほどあっさりと剣戟に背を向けた。この戦いは、浦原が手を出していいものではない。浦原の役目は、一護が負けたら、速やかに地下室を潰し、一護を殺すことだった。殺せぬまでも、二度と動けぬように封印することが、今の浦原に課せられた使命だった。
浦原の後ろに続いた夜一は、ちらりと後方に視線を流した。その先では、激しい戦闘が続いていた。
死ぬなよ、とはもう言えなかった。もしも一護が負けたら、真逆の言葉を吐かねばならぬことがわかっていた。
結局夜一もまた、無言で浦原の後に続いた。剣戟の音は止まない。その様は、白と黒の霊圧が混じり、空中にまだらの模様を描いているようだった。