読み終わると、ルキアはほろほろと涙を零したまま、一護を睨んだ。読んでいる間、ルキアは何度も心の中で、一護を『嘘つき』と繰り返しなじっていた。そして、心の中で『嘘つき』と繰り返すたび、ルキアの両の目からは涙が流れ出た。

「これが、上司が部下に宛てる手紙か」

 一護は無言だった。無言で、途方に暮れていた。しかしその瞳に宿る強い光を、ルキアははっきりと見た。ルキアは着物の袖で乱暴に涙を拭うと、改めて一護を睨み据えた。この莫迦には自分の喝が必要なのだと、ルキアはようやく理解した。

「何をしている。成すべきことを成せ。黒崎一護」

 はっきりとした声に、一護の瞳が焦点を結んだ。長い悪夢から開放されたような顔で、一護は息をついた。
 一護は笑った。不遜な、少年のような顔だった。

「わかってるよ」

「……ほう、ようやくわかったようじゃの」
「よ、夜一さん!?」

 急に割り込んだ声に、一護とルキアは固まった。そろそろと横を見れば、岩の上で黒猫がうずくまり、のんびりと尾を揺らしていた。散歩の途中のような気安さで、黒猫はひとつ大きなあくびをした。

「ようやくその箱が開いたか。合図が遅くて、待ちくたびれた」
「どういう……」
「ルキアからの依頼じゃ。その箱が開いたら、一護を迎えに来い、と」

 黒猫は、口の端を吊り上げた。長い尾がゆらりと揺れ、封の開かれた箱を指した。よく見れば、剥がした部分には『浦』という文字が書かれている。

「準備は整えてある、と書かれてはいなかったか?我々は待っていた。ルキアが、一護の背を押すまで。ルキアは無事成功したらしい」

 愉快愉快、と黒猫は笑った。一護とルキアはただ固まったまま、種明かしを聞いていた。ここに到るまでの全てが、記憶を失う前のルキアの予測通りだったことを、二人はようやく理解していた。
 軽やかな音を立てて、黒猫は一護の前へと進み出た。一護の顔をしばし見つめて、満足そうな吐息を漏らすと、夜一は告げた。

「さて一護。我々には、貴様を助ける用意がある。今すぐ、共に来い……と言いたいところじゃが」

 突然言葉を切った夜一に、一護とルキアは首を傾げた。夜一は笑みを深めると、ルキアを見た。自分達全てを手玉に取った、その手腕に敬意を表して、夜一はルキアの依頼を反故にした。

「一護。貴様、後で自由に来い。呼べば儂はどこにでも現れる。ルキアはすぐに一護を連れていけと書いていたがの……いたいけな女子を岩場に捨てて行くなど、男のすることではあるまい」

 積もる話があるのだろう、と夜一は言っていた。一護とルキアは、初対面のように、不器用に視線をさ迷わせた。その仕草に夜一は笑うと、一瞬で消えてしまった。

「……帰るか。手、怪我してんだろ。四番隊行くぞ」
「ああ」

 気まずい沈黙を破ったのは、一護の方だった。ルキアもぎこちなく頷くと、おずおずと一護の背中の上に乗った。

「……今までも、ずっとこうしていたのか」

 ルキアはふと気になることを尋ねた。一護は答えなかったが、それは肯定だった。かつての自分も、こうして一護と共に移動していたのか。それを思い出せはしないものの、ルキアは腕に力を込めて、自分にとって『もう一つの世界』だった存在を抱き締めた。

「……ルキア」
「聞かぬ」

 少し困ったように切り出された一護の言葉を、ルキアははっきりと遮った。そっと自分の懐を押さえれば、一護に宛てた手紙が、軽い音を立てた。

「全てを終わらせたら、聞いてやる」

 一護が少し笑った。背に乗っている状態では表情がわかるはずがないのに、一護が笑ったとわかることが、ルキアには不思議だった。
 言葉を尽くすよりも、ただ触れたいと願ったかつての自分の気持ちが少しだけわかった。
 目にもとまらぬ速さで、周囲の景色が流れてゆく。一護が高く飛び上がり、眼下にソウル・ソサエティの街並みが広がった。その光景に、ルキアの胸は高鳴った。生きている、と強く思った。私は生きている。そして希望はこの腕の中に。まだ、誰も、何も死んではいない。
 耳の奥で聞こえる雨の音と泣いている子供の正体も、もうわかっていた。自分を誘う音に、心の中でルキアは手を伸ばした。子供に伝えたい言葉が、少しずつ形を作り始める。

(泣くな、ではない。言いたいのは)

 消えゆく意識の中で、はっきりと自分の手が何かに触れた。それを感じながら、ルキアは意識を手放した。

(大丈夫だ。大丈夫だから、もう、)




「花太郎!コイツ頼む!手ェ怪我してんだ!」
「え、一護さん!?って、ルキアさん!?と、とにかくこっちへ!」

 一護の背で意識をなくしているルキアに、花太郎が慌てて駆け寄った。それと同時に、もう一つ小さな影がルキアに駆け寄った。それは、ボロボロの黄色いぬいぐるみだった。

「ネエさん!」
「コン!?……何で……って、夜一さんか」

 取り残され、孤独にルキアの身を案じていたコンをこの場所に導いたのは、消えた黒猫だとすぐにわかった。瞳で問えば、コンは小さく頷いた。
 導かれたベッドにルキアを下ろすと、コンが枕元に駆け寄り、花太郎はルキアの治療に入った。

「何があったんですか?」

 濡れたタオルでルキアの指先を清め、傷口を一つずつ癒してゆく。元々浅い傷を癒すのに、そう時間はかからなかった。問題なのはルキアの疲労と揺らぐ霊圧で、てきぱきと点滴の用意をしながら花太郎は一護を横目でちらりと見た。
 一護は何も答えなかった。何かを知っているらしいぬいぐるみも、小さく『ネエさん』と繰り返す意外、声を出さない。これ以上問いかけてもいいものか、花太郎が逡巡している間に、ルキアの瞳がのろりと開いた。

「行け」

 ルキアが小さく呟いた声は、その部屋にいた全員にはっきりと聞こえた。そしてルキアが再び瞳を閉じた瞬間、確かにその場所にいたはずの一護の姿は、もうどこにも無かった。コンは呆然としたまま、今まで確かに一護がいたはずの空間を見つめた。耳の中に、黒猫の信じ難い言葉が蘇った。

(ルキアはやったぞ)

 そう言ってコンを呼びに来た黒猫は微笑んだ。何度も転び、叫びながら走り、結局黒猫の背を借りて、転げ回るようにして辿り着いた四番隊で、コンは女神の姿をはっきりと見た。

「ネエさん」

 震える声で、コンはもう一度ルキアを呼んだ。ちぎれかけた腕を伸ばし、ルキアの頭をしっかりと抱きしめる。この人はやっぱり女神だ、とコンは思った。記憶を無くしても、死神の力を失っても、自分にとっての女神はルキアだけだ。こんな風に、優しくて強い存在を他に知らない。こんな風に、自分と一護を、コンの世界の全てをあっさりと変えてしまう存在を知らない。
 一護の目に宿る光を、コンははっきりと見た。それは、ずっと昔から一護が持っていて、ルキアの記憶と共に失われてしまった、魂の煌めきだった。それを取り戻したのが誰なのか、コンはすぐにわかった。
 誰にも、一護自身にすら取り戻せなかった光を取り戻したのは、やはり彼女だった。
 コンはルキアの頭を抱き締めたまま、ネエさん、ネエさんと呟き続けた。
「ありがとう」
 消えゆく最後の一言は、誰の耳にも入らなかった。コンはそのまま、男泣きに泣き続けた。


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