一護へ。
私のいくばくかの霊圧を、ウサギのシャープペンシルに託す。貴様が情けない顔をしていたら、ペンを見つけ出すようにと怨念のような霊圧を込めておいた。私の執念は、無事に貴様を導くことができるだろうか。ほとんど使われていない私の部屋で、貴様がペンを見つけ出すところを想像するのは難しい。けれどこれを読んでいるということは、私は成功したようだな。
他の手紙のことは知っているか?私はここ数日で数十年分くらいの手紙を書いた。他の全ての手紙は、謝罪から始まっている。しかし、貴様にだけは謝る義理は無い。というか、むしろ一発殴らせろ。
何故貴様の記憶が無くなっているとわかったのかは、ここで事細かに語ることでもあるまい。そんなことは、貴様と再会した瞬間に気付いた。きっとそれは、離れていた間も、私たちが本当の友人だったのだということだろう。そして私が、あの約束を貴様の居ない間、片時も忘れることが無かった証明なのだろう。全く、貴様はとことん面倒を背負い込む奴だ。気付いた時は本当に呆れ返った。これを機に行いを正せ。
私は死んだか。貴様がこれを読んでいるということは、生きているとしても、私はろくでもないことになっているのだろうな。貴様の情けない顔が眼に浮かぶようだ。それを目の前で見て、大笑い出来ないのが辛い。
私は、貴様の記憶を取り戻すことを誓った。死んだ者が見栄を張っても仕方がない。正直に言うと、それは貴様のためではなく、私自身のためだ。私は今、貴様の身勝手な約束と心中する準備を整えている。貴様を救いたいという気持ちはたしかにある。けれどそれを突き詰めれば、やはり自分自身のためだ。あの約束以外に、私は生きる目的を知らない。他に夢も無い。実はもう一つ夢があったのだが、叶わないと諦めていた上に、貴様との約束でそれどころでは無くなってしまった。そうだ、誰にも言うまいと思っていたが、貴様になら話してもいいかもしれない。我ながら、夢物語だ。大笑いする準備はいいか?
貴様が死神代行をやめても、私は空座町に留まり続けるのだ。何十年も経って、貴様がよぼよぼの老人になっても(そういえば、まだ空座町にいた頃、コンを探していたときに私にメロンを売りつけようとした老人を覚えているか?あんな感じになった貴様を想像するのは、とても楽しい)、私は変わらずに貴様の家に居候を続けている。
その頃には私達のことを恋人同士だと勘違いする者も居ないから、私達は割と気軽に散歩に出るんだ。変わった貴様と、変わらぬ私が、あの時と変わらずに、きっと変わってしまったあの街を歩いている。時折、足腰の覚束無くなった貴様に、手を貸したりする。けれど手を繋いでいる姿を見た誰も、あの頃のように、私達の関係を勘違いしたりはしない。
道行く人が、お孫さんとお散歩ですかと貴様に声をかける。私達は真顔で同時に『いいえ、親友です』と答える。きょとんとした顔で固まってしまったその人を置いて、私達は再び歩き出す。そして家についてから、二人で同時に吹き出して、腹を抱えて大笑いするんだ。そして家では、私達に置いていかれたコンが、騒ぎながら待っている。
どうだ、下らない妄想だろう。だが私は、ずっと心のどこかでこんな未来を夢見ていた。絶対に叶わないと知りながら。それどころか、私の居場所はソウル・ソサエティなのだと、確かに自分自身で選択したにも関わらず。
私のあの時の感情は、きっと恋だったのだろう。貴様と駆け回ったあの街に、貴様が与えてくれたあの世界に、私はずっと恋をしていた。これが恋だと知ったのは、死神の力を失ってすぐのことだ。そして今は、おそらく愛しているのだと思う。かつて兄様と恋次が私を連行して行ったあの日、私は自分が死神であったことを天に感謝した。死神の力を失い、貴様と暮らしていた私を苛んだのは、周囲に一人の死神も居ない孤独では無かった。私を苛んだのは、ずっと求めていたものが、何の前触れもなく、手の中にするりと転がり込んできたことへの、浅ましい喜びと醜い執着だった。
もし私が人間だったなら、死んで虚になって、私が恋したあの街を残らず喰らい尽くしてしまうと思った。そして虚になった私が真っ先に襲うのは、おそらく貴様だった。
私は貴様が居ない間、何度もあの頃のことを思い出した。今でも、何度も思い出している。私が愛したあの世界を思い出す時、その世界の中心にはいつも貴様が立っていた。私にとって貴様は、そういう存在だった。貴様は、私の愛した世界の象徴だった。おそらく、これからもずっと。
虚となった私が、貴様を殺して笑っている。でもきっと本当に私が虚になったら、貴様が私を殺すのだろう。もうひとつ、隠していたことを話そう。その結末は、私の望む所だった。私は貴様に殺されたかった。私の愛した世界で、それを私に与えた者に殺される。しかも、貴様の刀は、私の罪を切り落とすことができる。それが斬魄刀で、死神なのだとずっと昔に貴様に教えたのは私だったな。こんな幸せな結末は無いだろう。貴様の刀が私の胸を貫く、その瞬間をうっとりと想像したことが無いと言えば嘘になる。
そろそろ気づいただろうか。貴様の虚に殺されることは、私にとって幸福だったのだと。貴様が私を殺したとしても、貴様が自分を責める必要は何もない。悪いのは私だ。全ての咎は、私にある。私は貴様の記憶を取り戻す賭けに出た。貴様の虚と私の戦いの結末など、はじめからわかっているだろう?それでも私は踏み出した。積極的に死ぬつもりは無かったが、貴様に殺されるのも悪くないと思っていた。勝ち目が無いと知りながら、私はそれでも戦うことを選んだ。
私は、貴様の虚を憎んではいなかった。それどころか、心のどこかでは、感謝すらしていた。貴様が変わらぬ姿で私の前に現れるという僥倖は、あの虚のもたらしたものだったのだから。もしも、貴様が私の記憶とは違う大人の姿で現れたら、私は知らぬ間に流れた時間を思い、きっと取り乱した。
私自身にも、私のこの世界にも、貴様の知らない同じだけの時間が流れたにも関わらず。
互いの知らない時間を語り合い、心の隙間を埋めていく作業が、きっと私達には必要だった。けれど私は醜い嫉妬から、それができなかった。私は、消えた記憶のことが先決だと自分を誤魔化し、正当化することができた。これもまた、あの虚の恩恵だった。
私は貴様に謝らないと言った。実際には、謝ることが出来ない。
私は貴様の虚に感謝した。あの虚の存在は、私にとってとても都合が良かった。
一護。これは裏切りだ。かつて私の為に命をかけてくれた友を、私の世界を変え、私を救い出してくれた無二の存在を、私は裏切った。己の、浅ましい感情のために。ただ、自分の為だけに。そして今、自分の為に、貴様の記憶を取り戻そうとしている。改めて言おう。たとえ貴様が私を殺したとしても、貴様が気に病む必要は無い。全ての咎は私にある。悪いのは、この私だ。
長い別離から再会を果たしたあの日、私は万感の思いを込めて貴様を抱き締めた。私達はあの時、長く離れていた友と、かつて自分と共にあったもうひとつの世界の両方を腕の中に抱いていた。そしてあの時の衝動と感情は、私達にしかわかるまい。同時に二つの世界を抱えて生き、そして片方の世界を選んだ者にしか、決してわかるまい。
もしも私が貴様の記憶を取り戻そうとしなければ、仮初の平安はこれからも続くだろう。だが、私にはその選択がどうしてもできなかった。貴様は、私の愛した世界そのものだった。私の愛した世界が歪んでしまったのを、私は看過することができなかった。命を賭すのは当然だ。あの世界はかつて私を救い、命を吹き込んでくれたのだから。
私たちはかつて、互いの世界を変えた。それが誰かの企みだったことなど、どうでも良い。あの時私たちは、確かに自分達で考えて答えを出した。それに、私たちの心は、誰にも操られていなかった。あの生活で本当に大事だったのは、私が現代語の勉強をしたり、貴様がコンと喧嘩をしたり、きっとそういうことだった。本当に大事なことは、決して操られてなどいなかった。本当に大事なことが積み重なって、私はあの世界に恋をした。
そして恋をしている間、決して貴様には聞けなかったことがある。貴様に否と言われるのを、世界に否定されるのを恐れ、決して口に出せなかった。貴様に対する罪悪感もまた、私の口を重くした。
貴様の世界は、私にたくさんのものを与えてくれた。しかし私の世界が貴様に与えたものは、理不尽でむごい仕打ちばかりだ。貴様は、私の知る限り最も真っ直ぐな存在だった。だが、私の世界はそんな貴様を何度も叩きのめした。
前振りはもういいな。躊躇っていても仕方がない。聞こう。それを貴様に聞けるのは、きっと私だけだ。貴様がこの世界へ足を踏み入れる、その引き金を引いたのは、紛れもなくこの私なのだから。
一護。この世界が好きか?
憎まれても仕方がない。知りたくなかったと思われていても、仕方がない。だが私は、貴様がこの世界を少しでも好いてくれていればいいと思う。この、不思議な戒律で縛られた不可思議な死神たちを、平和と戦いが、規律と混沌とが自由奔放に混ざり合うこの世界を、少しでも好きでいてくれたら、とても嬉しく思う。
一護。一護。私は何度、貴様の名を呼んだだろう。その名前の由来を、私は知っている。そして、貴様が、幼い頃誰を護りたかったのかを知っている。
貴様と私とコンが、皆で雨に打たれていたあの6月17日のことを、最近よく思い出す。そして、もうひとつの、はじまりの6月17日を想像する。幼い貴様に、絶望のような雨が降り注いでいる。9歳の貴様はずっと泣いている。護ると誓った母が、自分を護って死んだのだと泣いている。今でも目を閉じれば、雨の音と、貴様の泣く声が聞こえるようだ。できる事なら、その場に駆けつけ貴様を雨から庇い、そして一緒に泣きたかった。一護。あの虚は、今どこにいるのだろう。
母の仇を取るんだ、強くなるんだと言ったあの日の貴様の姿を、私は生涯忘れない。今でも鮮やかに私の脳裏に焼き付いている。あの時、口には出さなかったが、私もまた誓いを立てた。必ず貴様を守ると。貴様に心から感謝した。貴様が生きていた時、私ははっきりと悟った。希望は、ここにあるのだと。
仕組まれていた状況に意味などないと私が信じた光景は、あの日の貴様の姿だ。あの時私は、希望の姿をはっきりと目の当たりにした。あの瞬間、貴様の魂が出した答えを、誰が操れるというのだろう。私の魂が出した答えを、誰が操っていたというのだろう。
貴様の出す答えを予想して、動き出した者達がいた。だが、そんな事実は、真実の前に無力だ。あの日の真実は、私達の胸の中にこそあった。あの日の貴様の姿は、あの日見た美しい希望は、今でも私の心を支え続けている。どんな事実があろうと、貴様の輝きは消えない。翳ることすら無く、煌々と燃え続ける。それこそが、真実だ。
一護。一護。そこに居るな。そこに生きて居るな。ならば、希望はまだ死んではいない。私は生きているか死んでいるか知らないが、ともかく、私の存在が枷になることがあれば、私は速やかにこの世界から消える。浦原にその話は聞いただろうか?
きっと貴様は怒るのだろう。だが、私の記憶と痕跡が全て無くなっても、私がいた事実までは消えはしない。貴様が居る。だから、私は消えない。私は貴様に死神の力を授け、そして今、ここに貴様が居る。二人で掛けたあの街は、今も存在して、誰かが住んでいる。誰が気付かなくても、私が居た証は、確かに残っている。私の心と共に。
私は、私の愛した世界に心を置いてきた。実はそれは随分と昔の事だ。私が置き手紙を残して貴様の部屋を出たあの日、罪人として連行される前日、私はあの世界に心を置いてきた。あの時の私は、あの世界のあたたかい思い出を胸に抱いたまま、今もあの時の貴様の部屋に佇んでいる。
私は、心を預けることができた。あの場所に。そして自惚れても良いのなら、貴様とコンの胸の中に。誰の記憶に残らなくとも、何の痕跡も残らずとも、私の心は、いつも貴様と、私の愛した世界と共にある。私にはそれで十分だ。
ふざけるな、と顔を歪める貴様の姿が目に浮かぶようだ。私がこんなにも楽な方法を提示しているというのに、貴様は頑なにそれを拒む。そんなことは、わかっていた気がする。
一護。貴様がひとつではなくたくさんを護りたがっていることも、ずっと知っていた。護るという宿命を背負った貴様に、勝手に私の希望にされてしまった貴様に、私の最後の願いを伝えよう。勝手だ、と貴様は言うかもしれない。返す言葉もないが、もうなりふりなど構っていられない。私がおそらく死んだ今、私の愛した世界を守ることができるのは、もう貴様しかいないのだから。
一護。頼む。私を救ってくれ。私の命ではない。私の魂を守ってくれ。
方法は簡単だ。これを貴様が読んでいるのなら、天に向かって高らかに叫べば良い。私の魂は救われた、と。この手紙を読んだ貴様が、私の魂を守ることを、信じて疑っていない。これを読んだ貴様は、さぞ情けない顔をしているのだろう。そんな貴様の為に、準備は私がしておいた。感謝しろ。
一護、よく聞け。どれだけ絶望に打ちのめされようと、貴様の本質は変わらない。輝き続ける希望の光だ。希望はここにある。立て、一護。
こんなところで何をしている。立ち上がり、そして進め。
行け、黒崎一護。行って、貴様の成すべきことを成せ。
そして、前だけを向いていろ。私の魂を、私の愛した世界を救ってくれ。
一護。誰が何と言おうと、私の生涯は幸せだった。私は、周囲の不器用な愛情に、何重にも包まれていたのだと知った。そして、愛するということを知ることができた。愛に溢れた私の生涯は、幸福に満ちていた。貴様に出会えて良かった。
手紙とは、言葉とは不便なものだ。私のこの感情を表す言葉が見つからない。普段なら、ただ触れるだけで簡単に伝わる全てのことを、言葉にするのはこんなにも難しい。
今この瞬間に、目の前に貴様の指先ひとつあれば。貴様に、触れることさえできれば。
感情を言葉にできず、無駄なことを考えてばかりいる。いくら考えても、浮かぶ言葉はひとつだけだ。たった五文字。それが私の全てだと思うと寂しい気がするが、仕方がない。
ありがとう。ありがとう、一護。
きっと、さよなら