雨の音が、ルキアの聴覚を苛んだ。そして、子供の泣き声。ルキアはいつものように、その子供の影を掴もうと手を伸ばした。
そして手は空を切り、ルキアは目を覚ました。まったくいつも通りの朝だった。
「ネエさん!おはようございます!」
「ああ。おはよう、コン。すまないが、襖を開けてくれるか」
気怠さの残る頭を片手で軽く押さえると、ルキアはコンの開けた襖の外を見た。良い天気だ。ルキアは知らず、顔を綻ばせた。
大きく息を吸い込み、さて今日は何をするか、とぼんやり考える。自分と一護の関係は、誰に聞いても確かな答えが返ってこないことを、ここ数日でルキアは思い知っていた。花太郎に至っては、ごめんなさいと大声で謝りながら走り去っていった。きっと、何かはあるのだ。だがそれを誰もルキアに教えてくれない。調べれば、一護の経歴はまったく異色のものだった。ソウル・ソサエティに来た途端に、死神の席官になった彼のどこに、自分との接点があるのかがわからなかった。この経歴を信じるならば、自分と一護は出会ってから、まだ数ヶ月しか経っていないことになる。
とりとめの無い思考を放棄するように緩く頭を振ると、不意にルキアは自分の横の壁を見た。正確には、その先にある、もう一つの部屋を見ようとした。
「コン。隣の部屋は、たしか私の部屋だったな」
「え?そうっスけど……ネエさん?」
「行くぞ」
「あ!ちょ、ちょっと置いていかないでー!」
ルキアを追って、慌てたコンが部屋を転がり出た。ルキアはコンを肩に乗せると、使われていなかったらしい、自分の部屋の襖を開けた。
随分と、殺風景な部屋だった。
見渡してみても、見るべきものはほとんど無い。壁に沿ってひきだしのついた小さな机がひとつと、やはり小さな箪笥、座布団が置いてあるくらいだ。箪笥を開けてみれば、最低限の衣服が入っている。この雰囲気は何となく自分に馴染むものはあるが、やはり何も思い出すことは出来なかった。
押し入れを開ければ、そこにあるのは季節外れの着物や、ささやかな荷物だけで、やはりこれといって何も思い出さなかった。
コンは、ルキアの肩から押し入れの中に飛び降り、何の変哲もない箱を撫でていた。それがかつて自分の用意した、コンの寝床だと知る由は無かったが、いつもとは違うコンの雰囲気に、その理由を問うことはせず、ルキアは机の前にぺたりと座った。
そこに手を伸ばしたのは、無意識だった。無意識のうちに、何かに導かれるように、ルキアの手は迷わず一番上のひきだしを開けた。
開ける瞬間、軽い音がした。そこにあったのは古びたウサギのシャープペンシルただひとつで、それが音を立て、ころころと転がっていた。
ルキアは、やはり無意識に、それを手に取った。ウサギのシャープペンシル。眩しいものを見るように、それを上にかざした。その瞬間、ルキアの頭で何かが弾けた。
「ネエさん?……ネエさん!?」
かたり、と音がして、コンはルキアの方を振り向いた。そこにあった光景をとっさには信じられずに、コンはうろたえた。
さっきまで座っていたはずのルキアの姿が、どこにも無かった。開け放されたままの襖が、虚しく外の風を室内へと送り込んでいた。そして、ルキアがいたはずの場所には、古びたウサギのシャープペンシルがひとつ、落ちていた。
「一護!」
「……コン!?どうした!?」
突然仕事場に乱入してきたコンに、一護は瞠目した。それは今までには無いことで、その場に居た死神たちは全員が固まった。このぬいぐるみが現在誰と暮らしているのか、その場に居る全員が知っていた。
「ネエさんが消えた!」
「はあ!?どうやって!」
「俺様にもわかんねえよ!一瞬だったんだよ!音がしたと思ったら、もう居なかったんだ!探してもどこにも居ねえ!」
一番狼狽しているのはコンだった。自分が体験した出来事が、どうしても信じられなかった。まるで煙のように、ルキアが消えてしまった。まるで、瞬歩を使ったかのように。
「これが落ちてるだけだったんだよ!」
「お前……それ!」
叫びながらコンが振り回した物体に、一護が固まった。それは、ウサギのシャープペンシルだった。それは、この場所にあるはずの無いものだ。
『ウサギのシャープペンシルだ』
朽木ルキアは、そう言って笑ったのは、長い別離から、ようやく再会した日の出来事だった。あの時のルキアの言葉が、嘘だったとは思わない。それが、今何故ここにある?
「どういうことだよ……」
「一護?」
「……コン。ルキアの居場所がわかった。待ってろ。あと、それちょっと貸してくれ」
コンからシャーペンを受け取り、一護は思い出したようにちらりと自分の後ろを振り向いた。そこには、隊員たちが固唾を飲んで一護の動きを見守っていた。
「あの……」
「いいから行け!」
「仕事なら何とかするから!」
「……お願いします!」
何とか紡ぎかけた言葉は、仙太郎と清音にすぐさま叩き伏せられた。一護はその言葉に背中を押されるようにして、隊舎から離れた。
行き先は、あの日ルキアに連れて行かれた墓のある場所。あの墓に埋められていたはずのものが、今ここにある。それでは、今、あの墓に弔われているものは何なのだろうか。
一護はひとつ舌打ちすると、目的の場所へ向かう速度を上げた。近寄れば、ルキアの微かな霊圧が、ひどく不安定に揺らぎながら確かにそこにあることがわかった。一護は走り続けた。
「……ルキア!」
「…いち、ご」
呼びかけられ、一心不乱に土を掘っていたルキアは、どこか焦点の定まらぬ瞳で振り向いた。ところどころ血が滲んでいるその指先に、一護は眉をひそめた。
実のところ、ルキアは未だ、状況を理解してはいなかった。ただ、導かれるように走り、この場所に辿り着いた。走っている間、自分の体は嘘のように軽かった。ありえぬ速度で周囲の景色を置き去りにしていることに、自覚はなかった。そして、ようやく足が止まった場所にあったのは、地面に石を乗せただけの、小さな墓だった。……そこが墓である、とルキアは本能的に悟った。そして、やはり導かれたように手を伸ばした。
一護は、墓の周囲に供えてある、枯れ果てた花束に気付いた。誰が持ってきたのか、考えるまでも無い。記憶を失う前のルキアにちがいなかった。ルキアはかつて一人でここを訪れ、そして、枯れた花を片付けることは出来なかった。
視線を動かし、一護はルキアが掘っていた場所を見た。その場所には、最近掘り返した跡があった。
「ルキア。ちょっとどいてろ」
一護は斬月を背中から手元に引き寄せると、その大きな刀身を利用して土を掘り起こし始めた。程なく、小さな箱が姿を現した。
厳重に封がされた箱を二人で覗き込み、一護の手がそっと封を剥がした。その箱の中には、ウサギのシャープペンシルの姿はなく、代わりに一通の手紙が入っていた。
一護はその手紙をゆっくりと開いた。微かに、手が震えていた。
「……何だよ、これ」
「うむ?」
そこにあったのは、懐かしすぎるイラストと、『楽しく解読せよ』の文字。一護の身体から、力が一気に抜けた。
「ああもうテメーはいつもいつも!」
「この狸が何なのだ?」
「……わかるのか?これタヌキって」
妙な所に感心しながら、一護は手紙を読み進めた。全くふざけた手紙だった。少し書いた後、『やっぱり無しだ、面倒くさい。次の行から仕切り直す』と意味の分からない宣言が成され、そこから本文がようやく始まった。数行読み進めたところで、泥と血に汚れた小さな手が、横から手紙を取り上げた。
「……私が読み上げる」
その真摯な決意を、否定する理由はなかった。震える声で、ルキアは手紙を読み上げ始めた。それは、長い長い手紙だった。