「浦原。死ぬのは中止だ。……心残りができた」

 ルキアの宣告に、浦原がかるく目を見開いた。刀が迷うように微かに揺れたが、結局浦原はその刀を、再び杖の中へとしまい込んだ。

「すまない。心残りが消えたら、もう一度勧誘に来てくれ」
「できれば、黒崎サンの説得もお願いしますよ」
「断る」

 即答で否定したのは、ルキアではなく一護だった。一護は真っ直ぐに浦原を睨み据えていた。

「ルキアは絶対に殺させねえ」
「とりあえず、今日は退散しまショ」

 その瞳を臆さずに見つめ返し、浦原は笑った。そして踵を返すと、歩き出した。立ち去
る間際に浦原が残した言葉が、不気味な響きで一護の耳に届いた。

「……また、会いましょう」

 浦原の瞳が、星明りに反射して光った。そこに秘められた意志は、読み取ることができなかった。
 不気味な余韻だけを残し、浦原の姿はその場から消えた。どれだけ精神を集中しても、もうその気配を感じ取ることはできない。
 一護は、そろりとルキアを振り向いた。ルキアは相変わらず、一護を真っ直ぐに見つめたまま、その場所に立ちすくんでいた。

「貴様は嘘つきだ」

 ルキアは、はっきりと一護を断罪した。浦原とのやりとりを傍観しながら、この二人は知り合いだったのかとルキアは思っていた。そしてもうひとつ、それ以上に気になることがあった。

「一護。貴様は、私の何だ」

 ルキアの視線は、一護を射抜いていた。それは、かつてと同じ質問だった。しかし、その時彼は嘘をついた。『朽木四席』と自分を呼んで、上司と部下だと言い繕った。そんなものは、大嘘だ。

「貴様は何故何も言わない」

 一護は自分の話をほとんどしなかった。何故死神になったのかも、今までの生活も、何故十三番隊に入ったのかも。日常の他愛無い話すら、一護はほとんどしなかった。一護はいつも、ルキアの話を聞いたり、仕事仲間に聞いた話をしていた。
 ルキアは、ふと思い至った。もしかしたら、一護は話せないのかもしれない。ルキアのことに触れたくないのなら、それだけを避けて話せばいいだけのことだった。それが出来ないほど、一護の世界はルキアで埋められているとすれば、それは、途方も無いことだ。

「話せ。心残りになる」
「尚更言わねえよ。知って満足したら、お前死ぬつもりじゃねえか」

 顔を歪めて、一護は笑った。穏やかな声が、ルキアの胸を詰まらせた。
自分のことを本当は名前で呼んでいることも、もう知っている。自分と彼の間に何があったのか思い出せぬことが、どうしようもなくもどかしかった。

「私を助けると言ったな」
「ああ」
「私も、一護を救いたい」

 穏やかな、子供に諭すような口調でルキアは言った。その声には、懇願の響きがあった。

「一護。私は亡霊だ。長く留まれば不幸を招く。亡霊は、消えるのが道理だ」
「嫌だ」

 一護を救う方法は、記憶を失う前の自分が既に考えていた。心残りさえ無くなれば、ルキアは一護を救うために、安心して死ぬことができた。今、この瞬間でも。
 けれど、一護はそれを絶対に許さなかった。彼の瞳は、怒りで煌々と燃えていた。その光は美しく、ルキアは状況も忘れてそれに見惚れた。

「お前はいつもそうだ。自分が死んで、何とかなるなんて思ってんじゃねえよ。無かった事になんてするな!無かった事になんか、なると思うな!」

 一護が、魂を吐き出すように叫んだ。ルキアは目を伏せた。彼がここまで考える理由が、どうしても分からなかった。

「テメーの意見なんて全部却下だ」

 一護の言葉に、ルキアは何故か泣きそうになった。ルキアは顔を歪めて一護を見た。目の前には、同じくらい歪んだ一護の顔があった。
 ルキアは、自分の意思に忠実に、目の前に手を伸ばした。一護の死覇装の襟元を掴み、その胸に自分の頭を埋めた。絞り出した声は、情けなくかすれていた。

「私が一護を守る」
「お断りだ」

 一護は最後まで譲らなかった。ルキアは、耳の奥に響く泣き声の余韻が、誰かの声とどこか似ていることに気付いた。それは、意識を失う寸前に最後に聞いた、その声、は。
 次の瞬間、崩れ落ちたルキアを一護が支えた。

(守らなければ、私が守らなければ。この子供を)

 かつての自分は、そう思っていたような気がする。そして手を伸ばした先にいたのは、泣いている子供なのかそれとも別の誰かなのか、ルキアにはわからなかった。
 
 瞬間、失っていく意識の中で、ルキアの頭に全く異質な思考が切り込んだ。この子供を守る、と強く思っているのと全く別の部分で、ルキアの中に鮮烈に閃いた思考は、闇。

(そしてもし叶うなら、この子供に)

 ルキアの中で蠢いた意志は、全ての記憶を失ってしまった身体にただひとつ残った、最後の執念のようなものだった。
 気付けば、口が意志に反して動いていた。雨に苛まれる聴覚の中で、大きくはないその声は、ルキアの耳にはっきりと届いた。けれど何故自分がそんなことを言っているのかは、わからなかった。もう一人の自分が、勝手に口を動かしているような異質さで、抑揚のない声が一護に命令した。

「幕は、貴様が引け」

 ルキアは、たしかに一護にそう囁いた。意識を失ったはずのルキアから零れ落ちた言葉に、一護は一瞬戸惑った。それが殺してくれという意味だと気づいた時、一護はさせねえぞ!と叫んでいた。

「させねえぞ!誰が殺すかよ!ふざけんな!助けるに決まってんだろ!」

 意識を失ったルキアを抱えたまま、一護は吼えた。魂を切り刻むようなその咆哮は、月のない空に、ことごとく吸い込まれて消えた。




「……終わったのか」
「アラ、夜一サン。散歩っスか?」
「まあな」

 十三番隊から立ち去った浦原は、道の端に丸まっている黒猫に機嫌の良さそうな笑みを見せた。その表情に、黒猫が疲れたため息を吐いた。

「ご協力、ありがとうございます」
「儂はやりたいようにする。それだけじゃ」
「そっちも。すぐバレました?」
「当然だろーが。あんな時間に四番隊の使いがきてたまるかよ。こんな事すんの、テメー以外にいねえだろ」

 浦原は、黒猫の隣の物体にも愛想よく声をかけた。四番隊へは向かわず、黒猫と時間を潰していたコンは、やはり疲れた表情で浦原を睨んだ。

「全く。ルキアも周りくどいことをさせるな」
「何だ、やっぱり仕組んだのネエさんだったのか」
「ほう、気づいておったか」
「俺様宛てのネエさんからのラブレターに書いてあったんだよ!テメエが動くってな!」
「相変わらず、用意周到っスねえ」
「で?上手くいったのかよ」
「まあ、それなりに。多少は生気が戻ったみたいっス」
「これだけ動いて『多少』、か」

 浦原は苦笑した。確かに、追放されていつはずの瀞霊廷侵入をはじめとした努力と、得られた結果が釣り合っていない。しかし、それでも貴重な一歩にはちがいない。自分を殺せと書いた、ルキアの言葉に嘘はない。だが、浦原の手紙には、さらにその続きが書かれていた。

 だが、もしも一護が、それを乗り越えられると思うなら。まだ希望があるのなら、少しあの莫迦を焚きつけてやってくれ。あの莫迦はきっと、下らぬことで悩み、身動きが取れなくなっている。

 浦原は月のない空を見上げて、ひとりごちた。

「まだ、希望はありますよ」

 その希望がどんな形をしているのか、浦原は知っている。ただの紙だ。しかもきっと、イラスト入り。あの希望が潰えたとき、浦原は、今度こそルキアの首を落とさなければならなかった。そしてきっとあの弟子はそれを阻止しようとする。その先にあるものは、きっと誰かが死ななければ収まらない乱戦だ。

 浦原は、口に笑みを張り付かせたまま自分の掌を見つめた。殺せるのか、というのは愚問だ。とうに腹を括っている。朽木ルキアもそして黒崎一護も、どちらもきっと殺せる。

 浦原は、ずっと昔の遠い日々を思い出していた。まだ彼等が出会ったばかりの頃。まだ、穏やかな、仮初の世界が彼等を包んでいた頃。
 あの頃から、こんなにも世界は変わってしまった。今までにあの二人が払った苦しみと犠牲を、浦原はひとつひとつ数える気にはならなかった。思い出すのはただ、学校に通い、二人で死神代行をしていた頃の姿。制服姿の元死神と、死覇装の死神代行が、二人で街を駆けていたころ。
 ふと、浦原は印象的な光景を思い出した。夕日の前に一人佇む、制服姿の朽木ルキアの背中だ。
 彼女が何を考えていたのかはわからない。彼女は真っ直ぐに立っていた。他に立ち方を知らないのだと、声に出さず訴えているような背中だった。突然閃いた思考に、浦原は珍しく、途方に暮れた。足が地面に縫いつけられたように、その場から動かなかった。

「やだなあ。せめて、アタシに殺させてくださいよ」

 論理も筋道も全て飛ばして、本能的に辿り着いてしまったルキアの思考の果てに、浦原は眉をひそめた。ルキアは、虚となった一護に殺される事を覚悟していた。そして、おそらくそれはルキアの望みでもあった。きっと、朽木ルキアは黒崎一護に殺されたかった。おそらく今でも。
 唐突に固まった浦原に、黒猫がゆっくりと振り向いた。

「一護は立ち上がった。もう我々には待つことしかできぬ。合図があるまで」

 厳かに夜一が宣告した。手は尽くしたのだと、その声は浦原を気遣っていた。
 これは賭けだ。朽木ルキアの仕掛けた、渾身の賭けだ。浦原は祈るように空を見上げた。その空に、月は出ていなかった。



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