あの月夜から数日が過ぎた。一護がルキアと共に眠ったあの夜の出来事は、お互いに決して触れないまま、二人は、表面上は再び平穏な日々を取り戻していた。
 一護は夜更けの縁側を歩いていた。相変わらず遅くまで仕事をしていたのだが、そろそろ仮眠室にでも引き上げようかと思っていた。
 月も風もない夜に、不吉なものを感じて一瞬身を震わせる。仮眠室へと繋がる縁側を進む足を止めて、空を見上げた。その瞬間、今までぴくりとも動いていなかった空気が動いた。一護は鋭く闇を睨み据えて、固い声で問うた。

「誰だ」
「儂じゃ。久しぶりじゃの」
「夜一さん……!何で」

 気がつけば、一護の視線の先の暗闇の中に、懐かしい黒猫の瞳が煌いていた。挨拶をする、その声は固い。一護は眉間の皺を増やし、夜一の言葉を待った。
 夜一は軽やかな動きで、一護の目の前に移動した。足元から一護を見上げる黒猫の瞳は、再会を喜んでいるわけではないことが一目瞭然だった。

「一護。一度しか言わぬぞ。守りたければ……走れ。でないと、間に合わぬ」
「は?何言って……」

 その瞬間、一護の部屋にいたはずの気配がひとつ動いた。まっすぐに部屋を離れていく気配はあのぬいぐるみのもので、一護はこんな夜中に部屋を出る行動を訝しんだ。そして、驚きに目を見開いたのは、コンの気配が遠く離れてすぐのことだった。
 一護の部屋にあったもうひとつの気配もまた、僅かにだが移動した。彼女がこんな夜更けに動く必要など、あるはずがない。一護は目の前の夜一を険しい目で睨みつけた。しかし、夜一はその視線に怯む素振りすら見せなかった。
 走れ、と夜一は言った。走らなければ、間に合わなくなる。

「くそっ!」

 一護は舌打ちして、駆け出した。瞬歩を使おうとしたが、夢の中を走るように、足がうまく動かなかった。彼女の元へと走り出す動きを阻む無形の力が、作為的なものだとすぐに分かった。そして、こんな回りくどい手段で一護の動きを操ろうとする存在に、一護はたった一人だけ心当たりがあった。あの男の居る気配は無い。だが、あの男は気配などいとも容易く消し去ることができる、厄介な相手だった。
 
「邪魔すんじゃねえ!」

 どこから放たれているかわからない力に苛立って、四方八方に霊圧をぶつければ、幾分動きがマシになった。斬月を携え、一護は再び夜の闇を駆け出した。
 その様を、黒猫は微動だにせず見守っていた。


 ……音が聞こえる。ルキアは布団の上に座り込むと、小さく首をかしげた。

「……誰、だ?一護か?」

 その夜、渡しそびれた薬があるのだと、四番隊から地獄蝶が届いた。それをコンが受け取りに向かい、ルキアはひとり部屋に取り残されていた。
 月のない夜だった。夜中の空気は不気味に静まり返り、自分の息遣いの他には、物音ひとつしなかった。こんな重苦しい夜は初めてで、ルキアは何も考えずにコンを見送ってしまった自分を少し悔やんだ。そもそも、何故こんな夜中に地獄蝶がやってきたのかが、ルキアにはわからなかった。
 いつもは強引にルキアを連れ去ってしまう眠りも、今夜に限ってはまだ遠いようだった。理由の分からない圧迫感をじっと持て余していると、襖の外から、微かに声が聞こえた。聞き取りづらいその声に導かれるように、ルキアは襖を開け、庭へと続く縁側の廊下に足を踏み入れた。

 そこに立っていたのは、黒いマントを羽織った男だった。一護、ではない。一護より少し背が高い。そして、頭を覆う布から見えているのは、オレンジ色ではなく、淡い金色の髪だった。
 ルキアを認めると、顔を上げて男はへらりと笑った。その男は、ルキアの見たことが無い顔だった。

「……誰だ」
「ただのしがない駄菓子屋店主っスよン。朽木サンは、強欲商人って呼んでましたっけ」
「その商人が、何の用だ」
「大したことじゃ無いッスよ」

 男は携えていた杖から、魔法のように刀を引き抜いた。その刃が自分の喉元を捉えるのを、ルキアはただ見ていることしか出来なかった。
 男の目に宿った感情が何なのか、ルキアにはわからない。

「アナタを殺しに来ました」
「私、を?」
「ええ」

 夜の闇を纏った男は、薄い笑みを浮かべて頷いた。ルキアは視線を逸らさず、ただ男をじっと見ていた。そして落ちた沈黙に、耐えきれなくなったのは男の方だった。

「何も聞かないんスか?」
「聞いて欲しいのか」
「まあ、そりゃ少しは。ていうか、初対面の男にいきなり殺されて納得できます?」

 苦笑した男の表情は、思いがけず優しい。いよいよこの男の正体がわからなくなって、ルキアは困ったように眉根を寄せた。

「商人ということは、誰かに頼まれたのか?」
「はい。……記憶を失う前の朽木サンに」
「私?」

 男は、懐から一通の手紙を取り出した。宛名のその筆跡は紛れもなく自分のもので、ルキアは目を丸くして男を見上げた。

「もしも、自分が黒崎サンの枷になるようなことがあれば」

 歌うように、男は言葉を紡いでいた。かつての自分が残した言葉の欠片を、ルキアはただ呆然と聞いていた。
 首筋に、ちくりとした痛みを感じた。目の前の男が、相変わらず薄く笑ったまま、刀に力を込めていた。

「その時は、自分を殺してくれ」

 もしも私が一護の枷になるならば、その時は私を殺してくれ。
 かつての自分の願いを、ルキアは驚きとともに受け止めた。しかし頭のどこかで、深く納得していた。

「私は、一護の枷か」

 呟いた声は、疑問ではなく、ただの確認だった。先日の、憔悴しきった一護が脳裏に蘇る。一護にあんな顔をさせたのも、あんな負担を強いたのも、紛れもなく自分だった。
「私が死ねば、一護は楽になれるのか」
「……ええ。楽になります」
「そうか」

 ルキアは目を伏せた。それは、紛れもなく死を了承した合図だった。だが、死を受け入れようとしたその瞬間、ひとつ心残りがあることを思い出し、ルキアが顔を上げた。

「……待ってくれ。私には、捜さなければならない者がいる」
「捜す?」
「そうだ。小さな子供だ。雨の中で、ずっと泣いている。……助けに行かなければ」

 ルキアの言葉に、はじめ面食らっていた男は、すぐに痛みを堪える表情に変わった。その反応が何故なのかわからず、ルキアは困惑して男を見上げた。あの子供の正体は依然として不明なまま、ルキアは今も、耳の奥に木霊する泣き声を聞いていた。
 男は再び笑顔を取り繕った。繕ったものだとわかるほどに、その笑顔はぎこちなかった。この男は何者だろう、とルキアは再び思った。ただ私利私欲の為に動いている商人ではないことは確かだった。そうでなければ、こんな表情はしない。

「アナタが死ねば、その子供は助かります。……彼はもう泣かない」
「そうか」

 自分でも驚くほどあっさりと、ルキアは男の言葉に納得した。子供のことを、『彼』と言った男は、子供の正体を理解しているにちがいなかった。
 目の前の男は、相変わらずこちらを見つめている。顔にこそ出てはいないが、男は、おそらく細く張り詰めた糸の上を歩いているような、切迫した状況にいる。

「それでは、死なない理由が無くなってしまった」
「そうですか」

 ルキアは苦笑した。これからもずっとずっと、今の生活を維持できるとは思えなかった。ならばこの男は、一護だけでなく私をも助けに来たのだろう。助ける方法を授けたのは記憶を失う自分自身だが、それを忠実に果たそうとしている男が、ルキアには哀れでならなかった。

「嫌な役目だな。すまぬ。……どうやら記憶を失う前の私は、随分と自分勝手だったようだ」
「とっくに慣れましたよ。……それに、こんなことじゃ償いきれない」
「償い?」

 その言葉をルキアは訝しんだが、それ以上の言葉は言わぬとばかりに男が刀を振りかぶった。月のない夜に、美しい刀が閃き、まるで発光しているようだとルキアはぼんやりと思っていた。

「遺言はありますか?あったところで、誰にも伝える気は無いんスけど」
「一護とコンに、感謝する」
「言うと思いました」

 男の持つ刀が、ゆらりと動いた。互いの心音まで聞こえるような恐ろしい静寂が、男とルキアとを包んだ。刀が自分に振り下ろされるのを、ルキアは目を閉じて待った。

「ルキア!」

 静寂を破ったのは、ルキアの首が落ちる音ではなく、ルキアの名を呼ぶ声と、刀同士がぶつかり合う金属音だった。
 ルキアは目を開いた。そこには、己の刀で男の刀を受け止めている、一護の姿があった。

「いち、」
「ふざけんな!アンタ何してんだよ!?何でルキアを……!浦原さん!」
「そんなの、キミには関係ありませんよ。黒崎サン」

 突き放す言葉に、一護の表情が曇った。浦原と呼ばれた男は、ルキアと対峙していた時よりもずっと酷薄な笑みを浮かべて、一護に向き合っていた。

「関係無いわけねえだろ!」
「無いっスよ。これはアタシと、朽木サンの契約っス。もしも朽木サンが、キミの枷になるようなことがあれば、殺してくれってね」
「何だよそれ!ふざけんな!ルキアを殺して、それでどうなるんだよ!何にも変わんねえじゃねえか!」
「変わります。朽木サンが、そのことに思い至らないとでも思ってたんスか?」

 はっきりと、浦原が断定した。世の中の有り様が分からぬ子供に、噛んで含めるような口調で、その双眸には憐憫の情さえ浮かんでいた。
 その言葉に、一護の動きが固まった。一護の頭に浮かんだ想像は、絶対に許せないものだった。しかし頭の片隅で、それこそが正解だと確信する自分がいる。
 一護には、出会った頃から、ルキアの考えが手にとるようにわかる一瞬があった。その勘が、一護に告げる。
 その言葉を口に出そうとして、一護は失敗した。ルキアの企みが、音になって現実となってしまうのを拒んでいるようだった。

「……もし、私が一護の枷になるようなことがあれば。その時は、私を殺してくれ。そして」

 無慈悲な声が、一護の耳に響いた。

「私に纏わる記憶と痕跡を、全て消し去ってくれないか。なにもかも、ことごとく」

 一護は、ルキアと出会ってから、今に至るまでの日々を思い出していた。それは、自分の持つもうひとつの世界と走り抜けた日々だった。その世界をもたらしたのは、朽木ルキアだった。

「キミは忘れる。そして、救われる」
「嘘だ」

 一護は、朽木ルキアを忘れた世界を想像した。出会ったことも、救われたことも、あの6月17日も。体験した全ての出来事から朽木ルキアをくり抜いたら、それはもう形を成していなかった。

「大丈夫っスよ。キミの苦しみはもう終わる」

 一護を労るように、優しく浦原は微笑んだ。一護は、唇を噛み締めた。

「そんなワケねえじゃねえか」

 そう呟くことが精一杯だった。このまま苦しみから逃れるように朽木ルキアを忘れれば、知らず知らずのうちに、世界が醜く変容してしまうことは確かだった。

「じゃあ、キミに何ができるっていうんスか?」

 一護は今度こそ言葉に詰まった。それを見越していたのか、畳み掛けるように浦原は問いかけた。

「このままじゃ、キミも朽木サンも潰れます。だからアタシはここに来た。他の方法があるんスか?」
「……知らねえよ」

 一護は両の拳を握りしめて、搾り出すように答えた。そして、口に出した瞬間、一護の中で何かが切れた。

「知らねえよ!だけどふざけんな!ルキアが死んで、全部忘れて、そんなこと許せるワケねえだろ!アンタは平気なのかよ!ルキアを殺せんのかよ!他の方法なんて知らねえよ!でもそんなことさせられるかよ!」
「キミにアタシが止められる、と?」

 ぞっとする気配が、マントを揺らして浦原の身体から立ち昇った。それは、霊圧を遮断する布で覆い隠しきれない、ただの殺意の塊だった。一護は気圧されながらも、正面から浦原の姿を睨んだ。その殺意に抗いきれなくなったとき、自分の世界が崩壊するのだと知っていた。精一杯の虚勢を振りかざし、一護は吼えた。

「止めてやるよ!何回だって止めてやる!ふざけんな!ルキアが助からないって決め付けんな!……俺が助けてやるよ!誰が殺させるかよ!誰が忘れさせるかよ!」
「でも、彼女には生きる気がない」

 浦原の顔が、笑みの形に歪んだ。一護は、ゆっくりとルキアの方を振り向いた。浦原の振りかざした刀のその先で、沈黙を守っていたルキアは、一護をまっすぐに見つめていた。



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