「黒崎五席!いい加減休んでください!」
「いや、でも……」
「いいから!もう自分たちでやっときますから!」

 十三番隊に、悲鳴のような声が響き渡ったのは15分ほど前のことだ。それは、明らかにワーカーホリックになっている第五席を諌める、隊員たちの懇願の声だった。
 ルキアが居なくなってからというもの、一護は彼女の分を補うかのように働き続けていた。そしてここ数日は、普段に輪をかけて、鬼気迫る量の仕事をこなしている。一護がいつどこで休んでいるのか、十三番隊の隊員には全くわからなかった。実際は、人並み外れた霊圧と体力だけを頼りに、ほとんど休んでいないのだから、隊員がわからないのも無理はない。
 夜中に隊舎から強制的に放り出された一護は、廊下をゆっくりと歩いていた。行くあてなど無い。今まで仕事をすることで誤魔化していた思考が、不意に頭をもたげて、一護はふるふると首を振った。はあ、と大きく息を吐き、脱力すると、ここ数日の疲労が一気に身体にのしかかってきたようだった。急に凄まじい睡魔に襲われ、一護はのろのろと廊下の柱にもたれかかった。
 窓の外から月が見える。その月を眺めていたはずなのに、気がつけば、一護の視界は闇に覆われていた。

「あ、れ?ヤベ、寝てた」

 いつの間にか座り込んでいた自分を自覚し、一護は焦って周囲を見渡した。自分がどれだけ眠っていたかわからないが、周囲に変わった様子はない。誰にも見られなかっただろうか。目を擦りながら、一護はふらふらと歩きだした。
 まだ、頭に靄がかかっている。頭を振っても眠気は取れず、一護は惰性だけでのろのろと歩き、自分の部屋の襖を開けた。そして、自分の布団を見つけ、そこに潜り込んだ。布団の中に温かい何かが居たが、いつものことなので何も思わなかった。そして、一護は眠りに落ちた。

「……ん?……」

 隣でごそりと何かが動いた気がして、一護は薄く目を開けた。目の前には黒い物体。考えるまでも無く、それはルキアの頭だった。一護は何も考えず、その手を伸ばて、黒い髪を撫でた。夜中の部屋は輪郭がひどく曖昧で、今が夢なのか現実なのか、一護にはわかってはいなかった。艶のある黒い髪の感触に、一護は顔を歪めた。胸の中に宿る感情は、本来の彼女に言えば、その場で張り倒される類のものだという自覚はあった。それでも、言わずにはいられなかった。

「悪ィな。いつもお前ばっかりだ」

 ごめん、と普段は言えない懺悔を何度も繰り返して、一護はルキアの髪を撫で続けた。
 撫でながら、頭の冷静な部分が、これは現実ではないのかと警鐘を鳴らす。さあ、すぐに立ち上がり、この場所を離れ、何事もなかったかのように、さあ。
 けれど一護は、ごめんと繰り返しながらルキアの頭を撫で続けていた。しばらくそうしていると、ルキアの頭がごろりと半回転し、一護の前にルキアの寝顔が晒された。ふるりとルキアの瞼が震え、ぼんやりと紫色の瞳が姿を表す。それすら、薄い月明かりの差し込む部屋の中で、現実ではない夢の中の出来事のようだった。

「……いち、ご?」

 か細い声が、夜の空気を揺らした。その声で一護はようやく我に返ったが、もうどうすることもできなかった。
 ルキアはおぼろげながら現状を把握した。自分がそこまで驚いていないことが、ルキアには不思議だった。布団の中に、もう一つのぬくもりがあることが、不自然ではない。ルキアもまた、現実と夢の区別がついていないようだった。

「……添い寝は、さすがに強要した覚えは無いな」
「悪い。すぐ退く」
「たわけ」

 今度はルキアが一護の頭を撫でた。頭に添えた手はそのまま滑り降り、一護の輪郭をなぞった。
 手を一護の頬に添えて、ルキアは不機嫌そうに眉根を寄せた。

「ひどい顔だ。疲れているのだろう?もう少し眠っていけ。夜明けまでに出れば、コンも隊員も、誰も気付かぬ。それに、ここは元々貴様の部屋だ。……本当なら、退くのは私だ」

 一護の目に手をあててその視界を塞ぎながら、ルキアは顔を歪めた。本当なら、一護が一番気付かれたくなかったのは、他でもない自分だとわかっていた。けれどルキアはそれには無視を決め込んだ。胸を焦がすのは、途方もない罪悪感だった。

「すまぬ」
「謝るな」

 一護の拒絶に、ルキアの顔には苦悩の色がはっきりと浮かんだ。ルキアには、一護が何故自分の世話を焼いてくれるのかわからなかった。明らかに上司と部下の関係を超えても、周囲は不思議なほど何も言わなかった。それどころか、痛ましい目で自分と一護とを見ていた。何故一護が自分に謝罪するのか、何故一護が自分の世話をするのか、ルキアにはひとつ心当たりがあった。ルキアは、一護の名前を一番初めに覚えた。そして一護が名乗ったその時、一護は自分の隣に寝かされていた。
 自分は虚に襲われたのだと、ルキアは聞かされた。その詳細については、誰もが話そうとしなかった。けれど、きっと一護と自分は同時に襲われたのだ。ルキアはそう思っていた。

「貴様は何も悪くない。悪いのは虚だ。そうだろう。貴様は悪くないのに、迷惑をかけている。すまぬ」
 
 一護は何も答えなかった。けれど、微かに震えた吐息に、謝罪を受け入れたわけではないことを、ルキアは確信した。ルキアにはそれがたまらなかった。
 虚が悪い、とルキアは言った。その虚が今自分の目の前にいるのだと、ルキアには知る由もない。

「眠れ、一護」

 静かに囁き髪を撫でれば、本当に疲れていたのか、一護から規則正しい吐息が聞こえてきた。眠る直前、一護の唇が何かの形に動いた気がしたが、気のせいだったのだろう。
 青白い顔を晒した一護は、普段よりもずっと生気がない。

「すまぬ……すまぬ」

 ルキアはうわ言のように謝罪を繰り返した。一護は、上司と部下だというだけで、運が悪かったというだけで、ただ眠ることしかできなくなってしまった自分の世話を、全て押し付けられている。自分は一護の、とてつもない重荷になっている。それなのに、一護は自分を責めない。それどころか自分に謝る。痛ましいほどの真摯さで。

(ごめん)

 一護に、あんな声を出させたのは私だ。けれどどれだけ考えても、その時何があったのか、まっしろな頭の中に浮かんではこなかった。
 思い出せなかった。なにひとつ、思いつきさえしなかった。
 あの雨と子供の正体も、一護との関係も、今まで過ごした日々も。記憶を無くしたとき、自分に何があったのかも。何もかも、ことごとく。

「すまぬ」

 涙声になった最後の謝罪は、自分の中で消え果てた、世界のすべてに向かっていた。
 思い出せない。何も、思い出せない。
 ただ自分の存在が一護を苦しめ続けていることだけがわかっていて、ルキアは声にならない声で呻いた。



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