「卯の花さん!急患だ!」
四番隊に卯ノ花烈の霊圧を見つけると、一護は迷わず瞬歩でそこに飛び込んだ。
唐突に窓から現れた一護に、卯ノ花だけではなく偶然その場に居合わせた虎徹勇音も、あまりのことに一瞬動きが止まった。だが、雨に濡れた一護の背負う物体を見て、すぐに卯ノ花は厳しい顔で立ち上がった。
「勇音。彼女の着替えと、部屋の準備を」
「はい!」
勇音は駆け足で部屋を出たかと思うと、すぐに大量のタオルを持って戻ってきた。それを机の上に放り出してから、再び部屋を飛び出した。
「お二人とも、とにかく身体を拭いて下さい!着替えと部屋は、あと3分で準備します!」
「彼女をこちらへ。……あなたも、雨をお拭きなさい」
そろそろとルキアを椅子の上に移したときに、崩れ落ちかけたルキアの身体は卯ノ花が支えた。ルキアの目はうっすらと開いているが、焦点が合っていない。ルキアはただぼんやりと、されるがままになっていた。
「何があったんですか」
「夜中にコイツの霊圧動いたと思ったら、庭で止まって……見に行ったら、この状態だった」
ルキアの身体をタオルで包むようにして水分を拭き取りながら、卯ノ花は眉根を寄せた。冷え切った身体には、血の気がまるでない。
ぞんざいに自分の身体を拭いて、一護はルキアを見た。ルキアは人形のように、卯ノ花にもたれかかっていた。
「卯ノ花隊長!できました!」
「では、連れて行きます。……着替えと、治療に集中する必要があります。ここでしばらく待っていて下さい」
一護に何枚か乾いたタオルを渡しながら、卯ノ花は言った。一護には頷く他にできることはなかった。
ルキアの霊圧はか細く、最悪の想像をかきたてた。髪から落ちた雫を拭う気にもなれず、一護はタオルを握りしめたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。気がつけば、卯ノ花が一護の目の前に戻って来ていた。自身の雨の雫も拭わず、ぼんやりと立っていた一護に少しだけ眉をひそめたが、すぐに気を取り直して、この場所に来た本来の目的を一護に告げた。
「とりあえず、霊圧は安定しました。意識もあります。……一応、ですが。会っておきますか?」
「……はい」
小さく頷いたのを確認すると、卯ノ花は無言で一護を案内した。部屋に通せば、朽木ルキアは、相変わらずぼんやりと自分の手元を見つめていた。
「……もう、平気なのか」
一護の声に、ルキアがのろのろと顔を動かした。焦点の定まらぬ目で一護を見て、ルキアは小さく口を動かした。
「……この雨は、違う」
ルキアの耳には相変わらず、雨の音と子供の泣き声が聞こえていた。それは、窓を叩く雨音とは違っていた。
「違うんだ、一護」
(雨の音が、聞こえる。)
一護は強く唇を噛んだ。ぼんやりと自分を見つめるルキアに、昼間のルキアが重なる。一護は、ルキアの不調の原因をはっきりと悟った。今日は、ルキアが倒れてから、はじめての雨の日だった。
やっとの思いで吐き出した言葉は、情けなくかすれていた。
「……そんな雨は、どこにも降ってねえ。その子供も、もういない」
「嘘だ」
「嘘じゃねえ」
「嘘だ。あの雨はまだ降っている。……そして、あの子供はまだ泣いている」
不意に正気に返ったかのように、はっきりとルキアは断言した。その瞬間、耳の奥で一護はたしかにあの日の雨の音を聞いた。
「どこにいる。行かなければ。私が、行かなければ」
焦点の合わない瞳をさ迷わせ、うわ言のようにルキアが呟く。それを聞いて、一護はたまらなくなった。終わったはずのあの日は、朽木ルキアを雨の檻に閉じ込め、未だ一護の目の前に立ちはだかっていた。
一護は、ルキアに手を伸ばした。けれど、触れるのが躊躇われて、手は不恰好に宙をさまよった。
「……どうしろってんだよ……」
血を吐くような一護の独白は、ルキアには聞こえていなかった。ルキアは相変わらず自分の手元を見つめながら、雨の音を聞いていた。
ぐらりとルキアの頭が傾いだ。それを受け止めたのは、これまで何も話さなかった卯ノ花だった。
「面会は、これまでのようですね」
「……ありがとうございました」
ルキアを寝かせながら、あくまで淡々と卯ノ花は告げた。その事務的な口調に救われて、一護は何とか己を取り繕うことができた。
「彼女はしばらく入院の必要があります。よろしいですね?」
「はい。お願いします」
頭を下げて立ち去る一護の背中を、卯ノ花は苦い顔で見送った。
ため息を吐いてルキアの布団を整えると、卯ノ花もまた病室を後にした。部屋を出る瞬間、不意に妙な気配を感じて卯ノ花は振り向いた。けれど、病室は何も変わらない。窓の外にも、妙な所はない。気のせいかと納得すると、卯ノ花は部屋を後にした。
卯ノ花が部屋を立ち去った瞬間、窓の外の闇の中に、金色の瞳がはっきりと煌めいた。
それは漆黒の猫で、病室の中の眠るルキアを一瞥すると、すぐに闇に消えてしまった。
先程まで瀞霊廷にいたはずの黒猫は、現世で空座町の道をひたひたと歩いていた。
視線の先に、古びた駄菓子屋があった。その店は、すっかり変わってしまった街並みの中で、数十年前と全く同じ外観を保っていた。
塀に上り、黒猫はまっすぐ店主の部屋を目指した。目的の場所では、目的の人物が縁側でゆっくりと時代がかった煙管をふかしていた。
「喜助。ルキアは失敗したぞ」
夜一は苦々しく息を吐き出した。眼を閉じて思い出すのは、眠るルキアに、立ち尽くす一護。あれでは、いずれ両方共が倒れてしまう。夜一は、朽木ルキアを止められなかった自分を呪った。そして、少しだけルキアを恨んだ。表面だけでも、穏やかな日常は手に入ったはずだ。それなのにルキアは、それに満足しなかった。結果、この現状がある。
夜一の言葉などどこ吹く風で、浦原は煙を天に向かって吐き出していた。その呑気な仕草に、夜一の瞳が剣呑さを帯びる。
「喜助!」
「今の状態なんて、十分想定の範囲内ッス。朽木サンは、まだ失敗してません」
「とぼけるな!この前から、一体何を隠しておる?」
浦原は無言で懐から紙を取り出した。朽木ルキアに『私が帰ってから開けろ』と命じられ、もう何度も読み返した手紙には、ルキアの計画のほとんど全てが書かれていた。
「それが、貴様宛の手紙か」
「そうッス。……ああ、もう夜一サンも共犯にしちゃいましょうか。はい、どうぞ」
目の前にぞんざいに広げられた手紙を読み進めるうちに、夜一の顔は曇っていった。
そして最後の行まで読み進めた後、夜一は深く息を吐いた。
「とんでもない物を読ませおって……。儂にこれを読ませた意図は何だ」
「言ったデショ。共犯」
浦原は相変わらず表情の読めない顔で、煙管をくゆらせていた。夜一は、真面目に並べ立てられた途方もない言葉の羅列を、改めて見直した。
「私が一護の枷になるようなことがあれば、か。成程、大した覚悟じゃの」
「そういうの得意なんスよ。朽木サン。……で、どうします?」
「儂は儂のやりたいようにする」
夜一はそれだけ告げると、浦原をきつく睨んで、夜の闇に消えた。誰も居なくなった場所には、朽木ルキアからの手紙だけがひらひらとはためいていた。それを取り上げ、浦原は薄く笑った。
これは、一通目だ。
浦原にはそう確信があった。瀞霊廷で見つかったどの手紙よりも、浦原の持つ手紙が最も早く書き上げられたはずだった。
物事を悪く考えるのが得意な彼女は、最悪の事態を想定して、まず一通目の手紙を書いた。その手紙には、計画の全てと、最悪の事態が起きた時の対処法が書かれていた。浦原は指でゆっくりと文字をなぞった。
もしも私が一護の枷になるようなことがあれば、その時は私を
迷いの無い文字は、それが彼女の心からの本音だからなのだろう。どれだけ時が過ぎても、まず自らを切り捨てようとする彼女の癖は治らなかった。
浦原は目を閉じた。すると、そこに朽木ルキアの背中が鮮明に浮き上がった。
浦原は想像する。朽木ルキアが筆をとり、最悪の事態を想定した一通目の手紙を書き上げる。
おそらく他のどれよりも長い一通目の手紙は、あまり時間をかけずに淀みなく書き上げられたはずだ。そして、二通目、三通目。これも、それなりに悪い事態を想定している。書き進めるにつれ、どんどん筆の速度が落ちる。四通目、五通目。筆を置き、少し考えこむこともある。六通目。考えている時間のほうが圧倒的に長くなる。悪いことばかりを先に考える彼女は、楽観的な状況を想定するのが苦手だった。
浦原の想像の中のルキアが、息を呑んで、深呼吸をしてから、改めて筆をとった。
少し書いては考え、考えては少し書く。それを繰り返し、ゆっくりと噛み締めるように最後の手紙を書き上げる。
それがどの場所で、誰を待っているのか、浦原は知っている。浦原は目を開けた。視線の先には、月が優美な弧を描いていた。
「その依頼、受けましょ。誰が死ぬのか、わかりませんが」
小さく呟いた声は、風に溶けて消えた。それは、たしかに自分の役目に違いない。浦原は、一通目の手紙を受け取ったのだから。
浦原は、彼女が書き上げた幾つもの手紙に思いを馳せた。
最後の手紙が書き上がったとき、彼女は少し泣いただろうか。悪い予言ばかりの手紙を書き続けた彼女が、他のどれよりも時間をかけて最後にとうとう書き上げた。それは、希望の手紙だ。