「……天気、悪ィな」
暗く澱んだ空に、一護はぽつりと呟いた。一護の頬をのろりと撫でる風は湿気を孕み、もうすぐ曇った空から雨が落ちてくることは、簡単に想像がついた。
一護は眉間の皺を深めた。雨は、嫌なことばかりを思い出す。唇を噛んで思考を停止し、手に持っているものに集中した。手の上には、湯気を立てている朽木ルキアの昼食が載っている。味噌汁をこぼさないように注意しながら、一護は立ち止まってしまった足を、少しぎこちなく前に動かし始めた。
「……起きてる、よな」
「……ああ、なんとかな……」
「体調悪いのか?」
「大丈夫だ。……とりあえず水をくれ」
一護が部屋に入ったとき、ルキアは布団の中にいた。けれど眠っているわけではないと察した一護が声を掛けると、ルキアはのろりと一護を見上げた。
一護の手を借りて上体を起こしたルキアは、差し出された水をゆっくりと飲んだ。普段とは違う様子が違うルキアに、一護は戸惑ったが、ルキアは何でもないと言うように首を振った。
「すまない。どこが悪いというわけではないのだが……。雨の音が」
「雨?まだ降ってねぇぞ」
一護は思わず自分が入って来た襖を振り向いた。閉ざされてはいたが、廊下を歩いていたのはほんの少し前のことだ。雨の音など聞こえない。
一護の反応に、ルキアは薄く笑った。コップの中の水を飲み干し、息をついたルキアは、音に集中するために目を閉じた。
(聞こえる)
「雨の音が、聞こえる。それと、子供の泣き声が。いつも眠る前に聞こえていたが……今日はずっと、しかも近くに聞こえる。何故だろうな」
「……気のせいだろ。コンはどこ行ったんだ?」
「ああ、新しいクレヨンとスケッチブックを取りに行ってくれた。残り少ないからな」
降り注ぐ雨の音に、子供の泣き声。ルキアに聞こえている音は、かつて一護も聞いたことがある音にちがいなかった。その音の正体を、すぐに一護は悟った。そして、ぎこちなく話題を逸らした。だから次の動作は、全くの無意識だった。
一護はルキアの頭に手を伸ばした。随分昔、体調を崩した妹をいたわる時にしたように、髪に沿って手を動かした。柔らかく頭を撫でる感触に驚いて、ルキアが目を開くと、同じように面食らった顔をしている一護が視界に入った。目が合った瞬間、二人の間に、不自然な沈黙が落ちた。
「……上司にすることでは、ないのではないか?」
「別に、たまにはいいんじゃねえのか。ちょっと寝とけ。メシ置いていくから」
「それもそうだな。……命令だ。しばらくそうしていろ」
ルキアは再び目を閉じた。雨の音と、子供の泣き声は未だやまない。それなのに、集中して、もっとよく聞きとろうとするとするりと逃げる。記憶も霊力も失った自分に残されたこの音には、一体何の意味があるのだろうか。音を聞いているうちに、遠のきかけた意識を、温かい大きな手が拾い上げた。自分の頭をゆっくりと上下するその感触が心地よくて、ルキアは口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「たわけが。上司の言うことは、何でも聞けばいいと言うものではあるまい」
「だろうな」
それでも、一護の手はルキアを撫でることをやめない。ルキアも、きっと何を言っても一護が自分の望み通りにしてくれることがわかっていた。
しばらくそうしていると、耳の奥の雨音が一層強くなった。一護の手の感触に集中し、必死に抗ったが、ルキアの意識はそのまま途切れた。
「……バカ野郎」
くたりと意識を無くしたルキアを支え、一護は呟いた。彼女に伝えたい言葉は多すぎて、なにひとつ言葉にならなかった。
意識を失ったルキアが目覚めたのは、夜のことだった。机の上には、昼とは違う食事が置かれている。おそらく、一護が持ってきてくれたのだろう。
(雨?)
いつも耳の奥で聞こえる雨の音の他に、もっと直接的に鼓膜を叩く音があった。ルキアはコンを起こさぬようにそろそろと布団から離れると、注意深く襖を開けた。
夜の冷えた空気が、ルキアの頬を通過した。少し身震いしながらも、ルキアは外に出た。
手を伸ばすと、雨がルキアの手を濡らした。身体の内から聞こえる雨と現実の雨が、重なりあってルキアを惑わす。ルキアは裸足のまま、導かれるようにおぼつかない足取りで庭へと降り立った。
(どこにいる)
雨は、ルキアの全身に容赦なく降り注いだ。冷えてゆく身体を感じながら、ルキアは目を凝らして泣いている子供を捜した。だが、どこにも見つからない。
この雨は違う。自分を苛み続けている雨ではない。そう気付いた瞬間、ルキアの身体から力が抜け、そのままふらふらと雨の中に座り込んだ。では、あの子供は、今も雨に打たれ、救われないまま泣いているのか。それがルキアには悲しかった。そのうちに思考も途切れ、ルキアはただ呆然と雨を浴び続けた。ずっと雨を浴び続ければ、あの雨にたどり着けるかもしれないと思い、ルキアは目を閉じた。身体を叩く雨の感触が強くなる。
それでも、どうしても、あの雨には届かない。あの子供の残像すら、手にすることができない。
「……バカ野郎!何してんだ!!おい!聞こえるか!?」
唐突に、身体を叩く雨の感触が消えた。のろのろと目を開けば、一護がルキアを抱え込み、ルキアの体温を奪い続ける雨から庇っていた。
「あ……」
ルキアは口を開こうとした。けれど、長時間雨に打たれ、強張った身体がその動きを阻んだ。目の前にあるはずの一護の顔もどこか曖昧で、ルキアはぼんやりと瞬きを繰り返した。
そんなルキアの様子を見てとると、一護は舌打ちして、ルキアを背負った。ルキア自身は気付いていなかったが、元々弱かった霊圧は、更に儚く、消えかかっていた。
ルキアは一護にされるがまま、一護の背にもたれかかった。