ルキアが一護の部屋に引越してからの生活は、予想外にうまく回っている。
一護は夜は仮眠室で眠るが、朝昼夜と、起きている時間を見計らってルキアに三度の食事を届けに来た。三日に一度、四番隊に治療に行くルキアの送り迎えは勿論、その他にも、仕事の合間を縫って一護は必ずルキアの様子を見るため、顔を出す。
いつもルキアの傍にいるコンが、あれやこれやと世話を焼こうとするので、不便をすることは無かった。それを知っているにも関わらず、必ずルキアの様子を伺いに来る一護の律儀さは、ルキアには奇妙な程だった。顔は相変わらず無愛想で、ルキアのことを事務的に『朽木四席』と呼ぶのに、その態度は不思議と優しい。最近ではその優しさに慣れて、色々と我侭も言ってしまっている。
一護、甘いものが食べたい。スケッチブックとクレヨンが欲しい。地図を持っているか?
そして驚くべきことに一護は、口では文句を言いながらも、ルキアの要求に応えてみせるのだった。
その日ルキアが目を覚ましたのは、珍しく一護がやって来る前だった。ルキアは、すぐにもぞもぞと身体を起こした。自分がすぐに眠ってしまうことはわかっていたので、覚醒を自覚してからの行動は早かった。
「あれ?姐さん?起きてるんですか?」
「うむ。今日は調子がいいのかもしれない。……コン、ちょっと手伝ってくれ」
「はーい。って、朝っぱらからまた地図っスか?」
「仕方無いだろう。どこに何があるか、全くわからぬのだ」
ぶつくさ言いながらも、コンは指示に従った。ルキアが広げたのは、一護が持ってきてくれた、大きな瀞霊廷の地図だった。本当はこの外に流魂街というものがあるらしいが、まずは自分の周辺から覚えろ、と一護は言っていた。
「……まずはここが四番隊。一番隊は……どこだ」
「俺様行ったことあるぜ。でっかい部屋覗いたら、爺さんしかいなくてガッカリだったけど。えーと、ココ」
「ほう。貴様が会ったのは、おそらく総隊長だな」
綿がはみ出しかけた腕が、ある場所を指し示す。このままでは忘れてしまいそうな情報に、ルキアはあることを閃いた。
「コン、ちょっとクレヨンを取ってくれ」
「ハーイ」
ルキアの言葉を特に疑う様子もなく、コンが正直に机の上のクレヨンを届ければ、ルキアはその中から色を選り出して、地図の上に絵を描いた。
顔の傷に、豊かな白髭。ただ一つウサギであることを除けば、中々特徴を掴んだ総隊長の似顔絵だった。
「次は二番隊」
「ココっス!」
コンが指した場所に、ルキアは再び絵を描いた。小柄でおさげの眼光鋭い隊長、襟巻きのついた大柄な副隊長、そしておまけに、二番隊の隊長が大好きだと言っていた黒猫の絵を追加してやる。不思議なことに、黒猫の絵はウサギになってしまった二番隊隊長の隣に、しっくりと馴染んだ。
「次は三番」
「……お前ら、何してんだ?」
「一護!朝食か?」
「おう。寝る前にさっさと食え」
既に起きていたルキアに少なからず動揺しながら、一護は朝食の盆をルキアの前に置いた。ノックもせずに一護が入ってくることに、まるで違和感も感じず、ルキアは本日の朝食を眺めた。
「握り飯か。ちょうど良い」
「あ、テメ、コラ朽木四席!物食いながら落書きすんな!」
「やかましい。こちらは起きていられる時間が少ない。時間は効率良く使わなければならぬのだ」
左手に持った握り飯を食べながら、再びクレヨンを動かす行儀の悪さを、一護が咎めた。しかしルキアは一護の小言などどこ吹く風で、クレヨンを動かし続けている。
「……せめて、冷める前に味噌汁と煮物は片付けろ」
「うむ。仕方ないな」
一気飲みするかのような勢いでルキアは味噌汁を飲み下すと、迅速かつ正確な箸さばきで、煮物を次々と口に運んだ。最後に熱いお茶を一口飲んで息をつくと、ルキアは再び地図へと向かった。
「ここが、十三番隊。……む、ここは何だ?島か?」
「雨乾堂だ。浮竹隊長がいる。あとここの池、すげーでかい鯉がいる」
「何。私でも行ける距離か?」
「やめとけ。途中で昼寝するのがオチだろ。……今度隊長に聞いて、連れてってやるよ」
「ああ、頼む」
言いながら、ルキアは雨乾堂の横に白い髪を長く伸ばしたウサギを描いた。無論、十三番隊隊長の似顔絵で、その出来に、ルキアは満足そうに握り飯を一口かじり、一護にちらりと視線を流した。
「良いか、忘れるなよ?」
ニィと唇の端を吊り上げるその仕草に、一護は遠い遠い過去の出来事を思い出した。
『一護!連れていけ!』
『はぁ!?お断りだ!』
雑誌に載っていたショッピングモールのイルミネーションを、ルキアが見物したいと喚いた。ただでさえ周囲に誤解を招いているのに、ますます誤解を招くような場所に行くことが耐えられず、一護は即座に却下した。その後はいつもの大喧嘩で、いつものように、自分たちの喧嘩は唐突に現れた虚に仲裁された。
いつものように夜の街を飛び回り、いつものように一護が疲れ果てた頃、同じように疲れ果てた声音で、ルキアが呟いた。
『この街は、綺麗だな。……わざわざどこかに出かけるまでも無いのかもしれん』
綺麗だ、と言ったルキアの声に、普段と違う色が滲んでいた。それがルキアの本心だと気づいた時、一護は何故かたまらなくなった。
『別に、出かけてもいいんじゃねえのか。見たいんだったらよ』
『さっきと随分言っていることが違うな』
『……死神だったら、別に見に行けるんじゃねえかと思っただけだ』
『たわけ。死神の力をそんな風に使ってはならぬ』
『じゃあ、そっち方面に虚が出るように祈っとけよ』
『莫迦者。そんなこと祈れるか。……しかし、まあ、もし出たら、だ。必ず連れていけ』
ルキアはありもしない空想をするかのように、楽しそうに笑った。その時、自分の首に回すルキアの両腕に力が籠ったのは、きっと気のせいではなかった。
『良いか、忘れるなよ?』
『ギャアアア!おま、首絞めんな!』
そう言って本気で両腕に力を込め、一護の首を締め上げたルキアを、一護が虚退治の疲れも忘れて怒鳴りつけた後の事は、もう覚えていない。一緒にイルミネーションを見に行ったかどうかも定かではない。覚えているのは、この街は綺麗だと言ったルキアの声音と、忘れるなと言った不遜な響きだけだった。
ルキアは変わっていなかった。ルキアを連れて行く時、卯ノ花に言われた言葉が蘇る。その重みを、一護は改めて噛みしめなければならなかった。
いっそ人格ごと変わってしまえば、まだ楽になれたのだろう。しかし、その本質は何も変わらないまま、朽木ルキアは空座町の記憶も、出会った人の記憶も、何もかも失ってしまった。自分が奪った。
一護は感傷を振り払うように、一瞬強く目を閉じた。絵を描くのに夢中だったルキアは、その仕草に気付かなかった。
「一、二、三、四、五……うむ、これで全てだな」
「お前の落書きで、微妙に地図消えてんじゃねえか」
「やかましい。……そうだ大切な場所を忘れていた、兄様の家はどこだ」
「ココっス!」
何故かコンが力強く朽木の家を指し示した。この家に思うところでもあるのだろうか、と一瞬思ったが、特にルキアはそれを追求せず、兄の家の横にわかめ大使の絵を描いた。兄の似顔絵は、もう六番隊で使ってしまっていたという理由で生まれた苦肉の策なのだが、自分の絵では、わかめ大使の神々しさの半分も表現できていない。ルキアは残念そうに眉根を寄せたが、練習あるのみとして気を取り直した。
「……一護、現在地は」
「……ここだ」
「そうか」
ルキアは一護の指し示す場所に、クレヨンでイラストを描いた。長い前髪が特徴的な黒髪のウサギに、黄色いライオン。そして最後に付け足されたのは、目付きの悪い、オレンジ色の髪のウサギだった。
「これ、俺かよ」
「そうだ。可愛いだろう?……よし、これで完璧だ」
「気が済んだらさっさとメシ食え。でないとまた寝るぞ」
笑いながら地図を見せるルキアの額を軽く弾いて、一護はルキアの目の前に握り飯の乗った皿を押し付けた。おお、と満足そうにそれを頬張るルキアの手から、まったく唐突に、握り飯がぽろりと落ちた。
「……ったく」
それを見事に左手でキャッチした一護は、食べかけの握り飯をそのまま片手で皿に戻した。たっぷりの茶が入った急須の横にそれを置いてから、右手でキャッチしたものに視線を落とす。
一護の右腕の中では、朽木ルキアが満足そうな顔ですうすうと寝息をたてていた。それを布団に押し戻して、一護はルキアの食べた皿を片付けた。
「コン、ルキアが起きたらそれ食っとけって伝えてくれ。俺、仕事行くから」
「おー。……気をつけろよ」
「お前に心配されるとか、気持ち悪ぃな」
「ウルセーよ。テメーが居なくなったら姐さん悲しむだろ。で、姐さんが元に戻ったら、きっと俺様はボコボコにされんだろ。そんだけだ」
「……ありがとな」
「おう」
元に戻ったら、という仮定の話を、一護の前で口にだすのはコンだけだった。一護と同じだけの痛みを自分も受けながら、コンはそれでも、仮定の話をし続けた。それは、かつてのルキアを絶対に忘れないというコンの意思表示で、自分はまだ諦めていないという宣言でもあった。そんなぬいぐるみの必死さを痛いほど感じながら、一護は目を伏せると、そっと部屋を後にした。
ルキアは意識を失う刹那、四番隊での出来事を思い出していた。
三日に一度の四番隊での治療に、卯ノ花はいつもと同じ朗らかな声で、ルキアに語りかけた。
『具合は、いかがですか』
『特に変わりません。大丈夫です。……ただ』
『ただ?』
『耳の奥で、雨の音が。……あと、子供の泣き声が』
いつも鳴り止まない雨の音と、意識を失う間際に、必ず聞こえる子供の泣き声。それが何なのか、ルキアにはわからなかった。それを聞いても、卯ノ花は特に表情を変えなかった。
『……その子供は、どなたでしょう』
『わかりません。……でも、泣いています。ずっと、雨の中で。小さな男の子が』
『そうですか』
卯ノ花は、特に治療するでもなく、そっとルキアの頭を撫でた。ルキアは特に抵抗もせずにそれを受けた。そこでその会話は終わり、いつものように一護が迎えに来た。ただ、それだけの話だ。
両目を閉じれば、顔を覆って泣いている子供の姿が浮かび上がるような気がした。
(泣くな)
ルキアは眠りに落ちる直前、子供に心の中でそう語りかけた。しかし同時に、頭の中の別の部分が違うと叫んでいた。泣き続ける子供に、語りかけたい言葉は別にある。
(違う、本当に言いたいのは)
その先の言葉を見つけられぬまま、ルキアの意識は遠のいた。耳の奥で、雨の音と子供の泣き声が響いていた。