「退院、ですか」
「はい、退院です。けれど、三日に一度はここで治療を受けて頂きます。もうすぐ迎えが来ます」

 首を傾げたルキアに、卯ノ花は微笑んで同意した。卯ノ花の言う『迎え』は既に、扉の前まで到達している。けれど考え込んでいるのか中々入ってこないその気配に、卯ノ花は素知らぬ顔で声を掛けた。

「もう入っても構いませんよ」
「……貴様は……」
「……よう」

 卯ノ花の言葉で部屋に入らざるを得なくなった一護だったが、早速会話が尽きて途方に暮れた。しばらく無言で睨み合う二人に、呆れたのか卯ノ花が助け舟を出した。

「何ですか、その頬は」
「何でもないっす」
「治療していきますか?」
「いいえ。……これは、このままで」

 一護はそっと湿布越しに頬に触れた。何もせずとも、数日すれば完治してしまうこの腫れは、兄であることに不慣れな、不器用な男の精一杯の感情にちがいなかった。
 それを受け止める自信も持てないまま、腫れた頬をなかった事にしてしまうわけにはいかなかった。
 卯ノ花は、その傷が誰によってついたのかを薄々察したのか、小さくため息を吐いた。

「黒崎さんが部屋までご案内します。生活のことは全て彼にお聞きなさい。困ったことがありましたら、私か六番隊の隊長に」
「はい。お世話になりました」
「お大事に」
「じゃあ、行くぞ」

 当然のように背中を向けた一護に、ルキアは面食らった。ルキアが固まっていると、一護はちらりと背後を見て、「早く乗れよ」と言ってきた。ということは、つまり、背中に乗ればいいらしい。
 おずおずとルキアが背中に乗り、首に手を回すと、ルキアの重みとぬくもりが背中から直接一護に伝わる。昔と変わらぬその感覚に、一護はぎゅっと目を閉じて感傷を振り払った。

「よろしく頼む。……ええと、貴様は私の部下だったな。黒崎、でいいのか?」
「何でもいい。好きに呼べよ」
「じゃあ、『一護』でも良いというのか」
「別にいい」

 『一護』という呼び名は、不躾な部下への嫌がらせのつもりだった。この男は、部下と言う割に、自分に対してぞんざいな口の聞き方をする。だから気安い名前の呼び方など嫌がるだろうと見越していたのに、意外にも黒崎一護はあっさりとそれを受け入れてしまった。

「一護。貴様は妙な奴だな」
「うるせえな。しっかり捕まってろ。……朽木四席」

 自分を呼ぶ時に、妙な間があったのは気のせいだっただろうか。とりあえず、『一護』という呼び方が妙にしっくりきたので、彼の呼び名はこれで通すことにした。そういえば、コンも彼のことを一護と呼び捨てにしていた。この呼び方がしっくり来るのは、あのぬいぐるみのせいなのかもしれない。
 そこまで考えて、ルキアは不意に気が遠くなるのを感じた。心の底から湧き上がる違和感がある。けれどそれは耳の奥で鳴り続ける雨の音にかき消されて、すぐに消えてしまった。雨の音に混じって、耳の奥から誰かの泣き声がする。その声を聞いた瞬間、ルキアの意識は途切れた。

「それで、良いのですか」

 沈黙ののち、口を開いたのは卯ノ花だった。はっきりと非難するその声に、一護は振り向きもしなかった。

「はい」

「覚えておきなさい。誰も、自分の本質から逃れることはできません。……たとえ、記憶を失っても。彼女の本質は、十三番隊第四席ではありません」
「それ、コイツが聞いたら怒りますよ」

 卯ノ花の断言に、一護は苦笑した。誰よりも熱心に任務をこなしていた十三番隊第四席の朽木ルキアを、卯ノ花はあっさりと否定している。その評価は、記憶を失う前の朽木ルキアには心外だったはずだ。
 けれど卯ノ花は、静かに首を横に振るだけだった。

「いいえ。彼女の本質は、『朽木ルキア』です。それは、あなたが一番ご存知のはずでしょう」

 朽木ルキアならば、一護のちっぽけな嘘などいずれ暴いてみせる。そう卯ノ花は指摘していた。けれど、悪あがきだと遠まわしに否定されてもなお、一護はルキアに真実を告げようという気にはなれなかった。
 一護は、卯ノ花の言葉から逃れるように、無言で部屋を出た。

(貴様は、私の何だ)

 まっすぐな視線で問い質されたとき、一護の胸に、その答えは用意されていなかった。仲間である。親友である。今は、上司と部下である。けれどどの言葉も、自分たちの関係を的確に表してはいなかった。果たしてこの女は自分の何なのか、一護自身にすらわからなかった。彼女は、ただ、『朽木ルキア』として一護の世界に存在していた。
 一護がソウル・ソサエティを思い出すとき、いつも世界の中心には彼女がいた。朽木ルキアは、一護にとってそんな存在だった。






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