「黒崎五席!」
「……おす」
「お、お帰りなさいいい!」
「お、おおおおお!?」
姿を見るなり涙目で飛びついてきた十三番隊隊員達にもみくちゃにされながら、ひとまず一護は職場復帰を果たした。
浮竹が言っていた『涙目で仕事をしている』というのはあながち嘘ではなかったらしく、次々と仕事が机の上に積まれていく。
淡々と仕事をこなしていた一護だったが、ふとある事に気がついた。そしてそれは時を経る毎に、隊員たちの間にも違和感として伝わった。そして決定打は、その日の昼に訪れた。十三番隊の隊員が、小走りで書類を一護に届け、一護はそれにちらりと目を通した。次の瞬間一護の口から出てきた言葉はあまりに自然で、それが有り得ないことだと気づくのに、数秒の間を要した。
「黒崎五席、この書類なんですが……」
「あ?隊舎の補修……。これ十年くらい前にもあったな。決定権は隊長だ。隊長行きの書類の中に入れといてくれ」
「はい。……は、い?」
「あ?……十年前には、いねえな、俺」
がりがりと頭を掻くと、一護は大きくため息を吐いた。これが誰の記憶なのか、考えるまでもなかった。
「あいつの記憶かよ……」
「あの……」
気付けば、隊員たちが皆心配そうな顔でこちらを見ていた。そのあまりの必死さに、一護は苦笑した。こんな時、ルキアなら何と言うのだろうか。きっと、暗い顔をするなたわけ、とでも言いながら蹴りのひとつも繰り出すにちがいない。一護はなるべく平静を装った声で告げた。それが成功したかどうかはわからない。
「あー……、なんか、そんなワケだから。あいついなくても何とかなるし。心配すんな」
それからの仕事は、本当に何とかなった。それは、朽木ルキアがこの数十年間、決して仕事をおろそかにしなかったことの証明のようなものだった。一護には、それがやりきれなかった。
「……痛ましいな」
復帰初日がさすがに心配で、一護の様子を見に来た浮竹は、働く一護を眺めながら小さな声でぽつりと呟いた。朽木ルキアの代わりに、朽木ルキアの記憶で仕事をしている一護は、どんな時でも、決して彼女を忘れることができない。これなら牢にでも入れてくれた方がマシだと一護が思っていることは明らかだった。けれど、それをするわけにはいかなかった。
浮竹は、机の上に置いてきた手紙に思いを馳せた。それは、朽木家経由で取り寄せ、いつもルキアが届けてくれていた、浮竹の薬の下にそっと置かれていた。三席の二人と浮竹がその手紙に気づいたのは、ルキアが倒れてから二日後のことだった。手紙は二通で、それぞれ第三席の二人と、浮竹宛だった。手紙というよりも遺書と言った方が正しいような手紙で、それを見た瞬間、浮竹も第三席の二人も、現在の状態が、ルキアにとって想定の範囲内だったと理解した。
内容に差はあれど、二通の手紙は同じ言葉で締めくくられていた。
『一護をよろしくお願いします。』
それが朽木ルキアの意志ならばと、浮竹は無理を承知で総隊長にかけあった。親友の他に、予想もしなかった援護射撃は、六番隊からだった。彼等もまた、朽木ルキアからの手紙を受け取ったらしい。それを知った時は、部下の抜かりなさに、天を仰いだ。
「それでもダメだ、朽木。お前がいないと、たぶんどうにもならない」
まだ彼女は眠っているのだろうか。かつて上司を失った経験がありながら、残される者の悲しみを考えなかった彼女を、浮竹は少し恨んだ。
退院してからしばらく経過したある日、一護は突然四番隊に呼び出された。呼び出された部屋には、白哉と恋次とが待ち構えていた。白哉に淡々と告げられた内容をすぐには理解出来ず、一護は目を見開いたまま固まった。
それを見て白哉は鬱陶しそうに片眉を跳ね上げ、恋次は面倒くさそうに首のあたりを掻いた。二人の様子に、やはり聞き間違いだったのだと悟った一護は、ようやく口を開いた。
「……白哉。ワリィ、よく聞こえなかった。もう一回言ってくれ」
「頭どころか耳まで悪いとは、嘆かわしいことだ。……今日、ルキアが退院する。ルキアの面倒は兄に見てもらう。無論、仕事の際は朽木の家に預けても構わぬ。必要なものがあれば取り揃える。だが、とにかくルキアは兄に連れ帰ってもらう」
白哉の変わらぬ回答に、再び一護は固まった。自分に義妹を連れ帰れという、白哉の意図が全く読めなかった。
記憶を失ったルキアには、数える程度しか会っていない。ルキア不在により降りかかった大量の仕事が、一護の身動きを阻んだ。けれど、本当は、それを有り難いと思っていた。彼女を直視して、正気でいられる自信が無かった。狂うことすら出来ないと、狂気そのものに断言されているにも関わらず、自分の罪の証を直視することがおそろしかった。
ルキアの傍にはいつもコンが居た。コンはルキアの眠っている隙に、一日に一度は必ず一護の元に来ていたが、顔を確認すると、何も言わずに立ち去ることが多かった。言葉はないが、今日もルキアは無事だと伝えようとしているに違いなかった。そんな不器用な気遣いに、気の利いた言葉をかけてやることも出来ないまま、一護は日々を過ごしていた。
そんな一護を、誰も咎めはしなかった。思えばルキアが記憶を失ってから今まで、一護は不自然な温情に包まれていた。一護は、握りしめた拳が震えるのを感じた。八つ当たりとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。
「何で……どいつもこいつも、正気かよ!俺はまた、ルキアを殺すかもしれねえんだぞ!何で誰も俺を責めねえんだ!何で誰も何も言わねえんだ!ルキアを面倒みろだと!?俺は、俺が、ルキアを刺したんだぞ!?」
一気に感情を爆発させた一護を、白哉と恋次はやはり冷めた目で見ていた。白哉が無表情のまま口を開いた。その言葉には、普段以上に抑揚が無かった。
「……恋次」
「ああはい、どうぞ。原型は残しといて下さいね、ルキアが驚きますから」
その言葉と同時に、白哉は全く貴族らしからぬ方法で、一護に答えを与えた。即ち、一護の頬を己の拳で殴りつけた。
ぶん殴ると表現するのが正しい乱暴さで拳を振るった白哉は、「気分を害した。隊舎に戻る」とだけ言い残して、瞬歩でその場を後にした。
突然白哉に殴られてよろめいた一護は、腫れた頬に軽く手を添えて呆然とその場に座り込んだ。そこに恋次が白哉のような無表情で近づいて一護と同じようにしゃがみ込むと、頬に添えた手を払い除け、腫れた頬を思い切り抓りあげた。
「いい痛ってええ!」
「隊長も手加減したなー、歯の一本や二本や十本くらい持ってくと思ってたぜ。ま、あの人も怒りのあまり他人をぶん殴るなんて生涯で最初で最後だろうし、力加減がわかんなかったのかもしれねえよなー。俺に確認せずに、ムカついたら問答無用で殴っときゃいいのに」
間延びした呑気な口調で話しながらも、恋次の手の力は強まる一方で、一護は痛みに顔を顰めた。
「ふざけんな!離せ!」
「ったく……ふざけてんのはテメーだ。隊長が何の理由も無くあんなこと言う訳ねぇだろうが。今でも多分、自分の家に連れて帰りたいって思ってるぜ」
「じゃあ、どうして……」
ようやく一護の頬から手が離れ、恋次はごそごそと己の懐を探った。そして出てきた紙を、一護に見せつけるかのようにひらひらと振った。『阿散井恋次殿』と書かれたその筆跡には見覚えがある。間違いなく、朽木ルキアのものだった。
「朽木の屋敷の、ルキアの部屋に置いてあった。同じ場所に、隊長宛のもあった。しかも、それだけじゃねえ。別の場所で、浮竹隊長と三席に宛てた手紙も見つかった。ずっとアイツが用意してた、薬の下だとよ」
おそらく、鬼道の練習の為に朽木家を訪れた時に置いていったものだろう。使用人に身の回りの世話をさせることを嫌がったルキアは、部屋の掃除も自分でしていた。だから、ルキアの部屋に他人が入ることは、ルキア自身に何か起こった時以外に有り得なかった。そして、浮竹の薬を用意するのはいつもルキアだったので、その薬をルキア以外の者が漁るのは、やはりルキア自身に何か起こった時だけだった。
おそらく、全てがうまくいけば、誰にも気づかれぬまま、朽木ルキア自身の手で処分されていただろう。
「他の手紙の内容は知らねえ。けど、想像ならつくぜ。……お前を頼む、それだけだ」
恋次の手紙は、謝罪からはじまっていた。すまぬ、とルキアは何度も書いていた。今までの感謝の言葉もあった。けれどそれ以上に、祈るように綴られた単語があった。一護を頼む、一護を助けてくれ、一護を守ってくれ、一護を、……朽木ルキアは死を覚悟したとき、きっととてつもない重荷を背負ってしまう相棒の、その行く末ばかりを考えた。おそらく自分自身のことは、考えていなかった。
「でも俺たちにはどうにもできねえ。せいぜいが、お前を牢に入れないことぐらいだ。だから、お前にルキアを預ける。もしお前がルキアを殺したら、隊長は、絶対にお前を許さねえ。ここでお前が逃げるなら、俺は絶対にお前を許さねえ」
恋次の真摯な物言いに、一護は瞳を伏せた。ようやく、今の自分の状況に納得した。そして、彼女のそのしたたかさが、心に痛かった。一護は己のことしか考えていなかった自分を恥じた。そして、自分に何が出来るのかを、おぼろげながら考え始めた。思わず口から出た言葉は、うわ言に近い、無意識のものだった。
「連れて帰る。……俺が」
「ああ。そうしろ」
「悪かった。恋次」
「謝るなよ。……諦めたみたいだろうが。まだ誰も死んでねえんだ。ルキアも、お前もな」
だから可能性はあるのだと、恋次は笑った。それが強がりだとわかった一護は、同じように不器用に笑い返した。本人は気づいていなかったが、それは本当に久々の笑顔だった。
「行ってくる」
「おお。その前に、湿布貼ってけ」
ぽい、と放られた湿布を頬に貼りつけ、一護は部屋を出た。霊圧で、ルキアが病室にいることはわかっている。ルキアの傍に四番隊隊長の霊圧があることに気づき、一護は無意識のうちに湿布を貼った頬を撫でた。彼女の治める場所で暴力沙汰を起こしたことを咎められるかもしれない、と頭の隅で考えた。
朽木ルキアを突き刺した感触は、今も手に残っている。
その手で彼女に何が出来るのかを、一護は病室までの僅かな距離を歩きながら考えていた。