「……気がつきましたか」
「卯ノ花、さん」
「はい」
目を覚ました一護の前には、卯ノ花烈が穏やかに微笑んでいた。名を呼んだのはほとんど無意識だとわかっていながら、正直に返事をしたのは、からかっているつもりなのだろうか。
ぼんやりとした一護の瞳が、徐々に力を取り戻す。それと同時、一護は思い出したかのように跳ね起きた。
「ルキアは……!」
「まだ起き上がってはいけません。貴方は無傷ですが、魂を壊しかねない量の霊圧を放出しました。疲れは深いはずです」
言葉は静かだが、有無を言わせぬ迫力に押され、一護は怯んだ。けれど諦めきれるはずはなく、卯ノ花の静止を振り切り、一護はルキアを捜すために立ち上がろうとした。
「呆れた」
小さく呟いた卯ノ花は、片手を一護の肩に添えるだけで、あっさりとその動きを拘束した。尋常ではない力で押さえつけられている肩が痛み、一護が呻いた。その苦悶の表情を前に、卯ノ花がなんでもない表情をしているのが恐ろしかった。
「……卯ノ花隊長、それくらいにしといてやって下さい」
控え目に割って入ったのは、恋次だった。元々ルキアの様子を見るために四番隊に顔を出していた恋次は、一護の起き出した気配を悟り、その病室に駆け込んだ。飛び起きてルキアの所に行こうとするならば、止めてやろうと思っていた。が、現実はこの有様で、殴ってでも止めようと思っていたはずの恋次は、何故か一護を庇ってしまった自分に少々呆れていた。
「これはこれは、阿散井副隊長。彼をおまかせしてもよろしいですか?私は朽木ルキアさんの治療がありますので」
「そのつもりです」
「それでは、黒崎さん。無理をしないでくださいね?阿散井副隊長……くれぐれもお願いします」
「……ハイ……」
にこりと笑って恋次に全てを託した卯ノ花は、ルキアの治療のため部屋を後にした。一護の傍を離れる瞬間、ちらりと流された視線の恐ろしさに、一護は息を飲み、びくりとこわばった。そして、卯ノ花の言葉が『無茶をさせたら命はないと思え』という意味だと理解してしまった恋次も、身体を固くした。
卯ノ花が退室するまで思わず息を止めてしまった二人は、ぱたん、とドアが閉じる音と同時に、顔を見合わせた。
「……元気そうじゃねぇか」
「どういう意味だよ」
「お前は、霊圧が回復したら退院して職場復帰だとよ。元々傷もねぇし、良かったな」
恐らく、最も繊細に扱うべき話題を、恋次は世間話のように気安く口にした。恋次の言葉に、一護は固まった。疑問は多く、何から聞けばいいのか一護は戸惑った。
何故自分は牢に入っていないのか、職場復帰とはどういうことか、そもそも、何故誰も自分を責めないのか、そして、
「ルキアは……」
ぽつりと零した疑問に、恋次は片眉を吊り上げた。殊更ゆっくりと話し始めたのは、実は恋次自身が未だこの問題に折り合いをつけていないからに他ならない。
どこまで話せばいいのかを注意深く考えながら、恋次は言葉を紡いだ。何かの拍子に地雷を踏めば、再び先日と同じことが起きるのかもしれなかった。しかも、もう暴走した一護を止められる者は、誰もいないのだ。決して本人には悟られぬ二重三重の結界が、一護の周囲にはかけてある。一護から一定の距離を保ち、恋次は一護に近寄った。
卯ノ花のように、結界の中にまで足を踏み入れる気は無い。
「……俺の名前と、隊長の名前は覚えた。あと、隊長格は大体覚えたな。ここが四番隊だってことも、覚えた」
覚えた、というのはつまり、はじめは忘れていたということだった。一護の顔が、目に見えて強張った。
「死ぬんじゃねぇかと思った霊圧も、ちょっとは回復した。だけど、もうこれ以上は回復しないだろうって、卯の花隊長が言ってた。普通の整よりも弱い霊圧のまま、あいつは寝たり起きたりを繰り返してる。……ほとんど寝てるって言った方がいいかもな。傍には、今は隊長と、あのぬいぐるみがいる。……何か質問あるか?」
一護は無言で、ぎゅっと手を握った。ルキアを突き刺した感触も、精神世界で自分の手からルキアの血が溢れていった感触も、まだ鮮やかに覚えている。
「あのバカ……なんで……あんな……つまんねえもののために……」
何故、あんな記憶を取り戻すためにルキアはあんなことをしたのか。その理由は痛いほどわかった。もし自分が同じ立場なら、きっと同じことをした。それでも、ルキアの行動の結末を知った今、一護は思わずにはいられなかった。何故、自分の全てを賭けてまで、あんなものを取り戻そうとしたのかと。
「その辺でやめとけ」
一護の憔悴も悔恨も、その表情から恋次に伝わった。そして、恋次は結界を越えて一護の傍に歩み寄った。例えば自分の言葉で一護が暴走しても、それで自分が死んでも、耳元に叩き込んでやらねば気が済まない言葉があった。
ぐい、と襟首を掴んで顔を引き寄せれば、一護が顔を上げて恋次を見た。その表情の幼さに、恋次は舌打ちをする。一度異変を認めてしまえば、気づくのはこんなにも容易い。明らかに、死神代行の時代から成長していない一護は不自然だった。何故ルキア以外誰も気づかなかったのかと今更驚愕するほどに、一護はかつての死神代行そのままだった。
「いいか!ルキアは命を張ったんだよ!つまんねえかどうかはルキアが決めることだ!ルキアはお前の記憶を取り戻そうと決めた時に、死ぬことなんて覚悟してたんだ!だから今の状態はお前の所為じゃねえ、あいつ自身の責任だ。それを自分の所為だ、つまんねえことだ、なんて言うな!ルキアを馬鹿にしてんのか!」
彼女は戦士だった。幼馴染として切なくなるくらい、彼女はしたたかで、出来の良い戦士だった。恋次は自分宛に残された、一通の手紙のことを思い出していた。
普段のぞんざいな言葉遣いとは違い、『阿散井恋次殿』という大仰な宛名の書かれたその手紙は、ルキアが死を覚悟していたことをはっきりと示していた。
一護はただ目を伏せて、恋次の言葉を聞いている。一護には一護なりの、思うところがあることも本当はわかっている。恋次は手の力を緩め、恋次は幾分か静かな口調で聞いた。
「質問だ。……記憶は戻ったのか?」
一護は目を閉じ、唇を噛んだ。かつて、浦原商店の地下室で起きた、浦原喜助に消された出来事の記憶は戻っている。しかし、恋次が聞いているのはそれではないことは明白だった。
未だあの虚は、自分の記憶を持ち去ったまま、苦しむ一護を見て笑っている。頭をよぎる光景は、自分のものではなく、その記憶を共有した、唯一の存在から与えられたものだった。
「……戻ってない。でも、何があったのかは、知ってる」
「……そうか」
恋次はそれ以上の言葉を返すことができなかった。ルキアは結局、一護の記憶を取り戻すことができなかったのだと思い知ることが、たまらなく悔しかった。けれど、一護を責めることはできなかった。誰よりも悔しいのは一護なのだとわかっていた。ルキアの手紙の一文一文を思い出し、どうすればいいのかわからずに恋次は途方に暮れた。
『一護を頼む』
その言葉で締めくくられた手紙の、紙の白さが目に痛かった。お前以外にはもうどうにもできねえよ、と恋次は初めて幼馴染を少し恨んだ。彼女はきっと今、真っ白な世界で眠り続けている。
「一護君。おめでとう、退院だ」
上司から笑顔でそう告げられたのは、一護が目を覚まして数日後だった。何を言われるのかと身構えていた一護は、その内容にいささか動揺して聞き返した。
「退院……?」
「ああ。明日からは仕事に復帰してもらう。有能な四席と五席が居なくなって、仙太郎と清音が涙目で仕事をしているんだ」
恋次から聞いてはいたものの、仕事復帰という言葉をすぐには理解できず、一護は眉根を寄せた。
自分は牢に入れられるものと思っていた。ルキアの状態はルキア自身の所為なのだと恋次は言ったが、虚という爆弾を抱えたままの自分を、上層部がそのままにしておくはずがないと一護は考えていた。
問いただそうとする一護の視線を、掴みどころの無い笑顔でかわして、浮竹は一護が最も気にしているであろうことを口にした。案の定、その名前を聞いた瞬間、一護の動きが強張った。
「それで、だ。朽木に面会許可が出た。退院前に、一緒に会いに行こう。起きているといいんだが……」
「ルキアに……会いに……」
「嫌かい?」
今までの笑顔を急に引っ込め、真顔で浮竹は聞いた。その視線から逃れるように一護は目を伏せたが、やがて小さな声で『行きます』と呟いた。
ずっと病室で過ごしていたから、ただ廊下を歩くだけのことが、一護にはひどく新鮮だった。すれ違う四番隊の隊員たちは、一護を見ると気の毒そうに目を伏せた。何が起きたのかは知れ渡っていないが、ルキアの状態は誰もが知っていた。そして皆当然のように、朽木ルキアは黒崎一護を虚から庇ったのだ、と考えた。それは半分だけ正しい。ルキアはたしかに一護を虚から救おうとした。しかし、虚は一護自身だった。
「ここだ。ああ、丁度卯ノ花隊長も来ているみたいだな」
幾分か緊張した面持ちで浮竹が扉を開けると、そこには、朽木ルキアが横たわっていた。よく見れば、ルキアの腹の上にコンがちょこんと座っていた。
「来ましたね。丁度先程目を覚ましたところです」
一護の姿を認めた卯ノ花は、手元のスイッチを押した。かすかな起動音と共に、ルキアの寝台の背もたれ部分がせり上がる。ゆったりと上体を起こした形になったルキアは、ネエさん、とコンに呼ばれ、ゆっくりと目を開き、コンの頭の上に手を置いた。
「……貴様、は……黒崎一護、と言ったか」
「ああ」
その双眸は、記憶を失う前と同じように澄んでいた。それなのに、霊圧は比べ物にならないほど弱かった。目を離せば消えてしまいそうな儚さで、かつての相棒はその場に佇んでいた。
「貴様は、私の何だ」
その場に緊張が走ったのを、遠い世界の出来事のように一護は見ていた。コンが何か言いたそうにこちらを見ている。一護は、思い出しかけた過去を意識的に頭から追いやった。
「ただの上司と部下だよ。朽木四席」
「そうか」
コンはできることなら、一護の頭を蹴飛ばして、思いつく限りの罵声を浴びせてやりたかった。けれどできなかった。浮竹も卯ノ花も、無言で一護を見つめていた。一護は踵を返すと、一人で部屋を出た。
その背中が震えていたのを、浮竹も卯ノ花も、コンも見逃さなかった。
「ネエさん……」
自分の頭の上に載っていたはずの手が、力を失って寝台の上に落ちた。コンの声はもう届かない。一護の動揺にも気づくことなく、ルキアは、再び眠りの世界へと旅立っていった。