ルキアは一護の背を追い、崩れゆく世界を走っていた。もうルキアの降らせた雪は止んでいた。
自分の記憶を見ていた一護の瞳に、光が宿った瞬間をルキアははっきりと見ていた。ルキアの記憶の雪を浴び、一護は走り去った。
自分の作り出した光景と、降らせた記憶の雪が、一護の中でどんな意味を持ったのかは知らない。けれど今ならばきっと、一護を取り戻せる。ルキアには確信があった。
ある一歩を踏み出したところで、唐突に世界が変わった。崩れ果てていた建物は姿を消し、目の前にあるのは、6月17日にあの虚と対峙した墓地だった。近い、とルキアは本能的に察知した。その先に一護の気配を感じ、ルキアは更に前へ進もうとした。
しかし、自分の後ろから唐突に声が聞こえ、ルキアはぴたりと足を止めた。
いつの間に現れたのか、9歳の少年が、振り向いたルキアの目の前で泣いていた。
少年は、母を亡くして泣いていた。雨は容赦なく少年に降り注ぎ、その身体を濡らしていた。
「一護!」
慌てて駆け寄り、その身体に触れようとした時、ルキアの身体に大きな衝撃が走った。
呆然としたまま、ゆっくりと自分の胸元を見れば、自分の心臓の中心に、漆黒の刀身がめりこんでいた。視線をずらせば、その刀の柄は、目の前の小さな少年の手が握っている。そして、ルキアがその意味を理解する前に、ルキアを貫いた刀は引き抜かれた。
「こんな見え見えの罠に引っかかってんじゃねぇよ、死神」
刀が引き抜かれると同時に、傷口から血が溢れた。それが血ではなく、もっと大事なものだとわかったが、ルキアにはどうすることもできなかった。
9歳の少年が、ゆっくりと顔を上げる。黒と白の反転した目がルキアを見据え、楽しそうに笑っていた。
「もうお前、空っぽになっちまうぜ。全部ここに捨てて、早く真っ白になっちまえよ。アイツの顔が見物だな。きっと馬鹿みたいに泣きわめくぜ。全く……手のかかる王を持つと大変だ。まだ抵抗してやがる。お前はもう居ないのに」
虚の声と同時に、9歳の子供の泣き声が聞こえる。ルキアは手を伸ばした。一護の精神世界に侵入する直前、たしかに同じ声を聞いていた。この声を抱き締め、この声のする方向に導かれるように、ルキアは一護の精神世界へと侵入を果たした。この声の主は未だ泣きながら、助けが来るのを待っている。
血が流れ、崩れ落ちる身体は、子供に抱きつくようにして支えた。虚は、未だ笑い続けている。ルキアはその耳にそっと唇を寄せ、囁いた。
「泣くな」
それきりルキアの意識は途絶えた。虚は一瞬黙りこくり、そうしてまた狂ったように笑った。
一護は刀を構え、目の前の虚と対峙していた。場所はあの墓地だった。しかし、それが現実のものではないことは、一護にもわかっている。
(何故、強くなる?)
声が聞こえる。その声の主を自分は知っている。自分の本質を暴く声に、一護は灰色の空を見据えた。
昔、浦原商店の地下で、母の仇の死を聞かされた時にも、一護の中で同じ声がした。そして自分はその問いに答えることができなかった。その後、あの虚に乗っ取られた身体が何をしたのかを、一護はもう取り戻している。浦原に笑いながら斬りかかったあの日の記憶が戻ったのは、この記憶が浦原喜助の手によって消されたものだからなのだろう。
未だ、虚に消された記憶は戻っていない。だが、消された記憶が何なのかを一護はもう知っている。
ルキアの降らせた雪は止んでいる。ルキアの雪は、自分の身体に触れる度、見たことが無い情景を一護の脳裏に鮮やかに描き出した。それは、ルキアが一護の失われた記憶と生きてきた時間だった。
ずっと、母の仇を取るために強くなるのだと思っていた。けれど、その夢が破れてしまった今、もう一護には強くなる理由が何も無かった。……本当に?
「……違う」
己の思考を己で否定し、ルキアの見せた、あの日の情景を辿った。死神代行最後の日に、どうして自分があんなことを言ったのかはまだわからない。ただ、あの頃の自分は、漠然と答えを手に入れていたのだろう。朽木ルキアによって広げられた、この世界のただなかに。
「よぉ。久しぶりだな、相棒。……答えは見つかったか?」
かつて母の仇と対峙した場所にいたのは、あの時の虚ではなかった。一護の姿を写し取ったかのような虚が、そこで一護を待ち構えていた。
「何故強くなる?」
その声は今度こそはっきりと、肉声として一護の耳に届いた。答えを紡ごうとした一護より先に、歌うように楽しげに、虚は言葉を続けた。ひとつひとつ、幼子に言い含めるように虚は事実を突きつける。
「もうお前の母親の仇はいない。そして……あの女も、もういない」
不意に、鮮やかな血の匂いが鼻についた。とても不吉な予感が一護の身体を絡めとり、その動きを妨げた。壊れた人形のように、ぎこちない動きで一護は振り向いた。そしてその先にあるものを見た瞬間、この虚ははじめから、自分の答えなど聞いていなかったのだとはっきりと理解した。目の前にあるのは、鮮烈な赤い血の色。一護は駆け寄った。
「ルキア!……ルキア!おい、目ェ開けろ!ルキア!」
血の海の中心に倒れているのは、朽木ルキアだった。傷口から未だ溢れ続ける血に、絶望が広がる。一護は、これが本当は血ではないことを本能的に悟った。溢れ続ける血を止めようとルキアの傷口を手で押さえても、指の間から血は流れ続けた。
笑い声が聞こえ、一護は背後をぎっと睨んだ。
「いいツラになったじゃねぇか!このまま乗っ取ってやろうと思ったけどよ……気が変わった」
虚が指を鳴らせば、かつての墓地は一瞬で掻き消えた。元の高層ビルの世界で、一護は自分を押し戻す風を感じていた。
「なっ……!」
「俺が居なけりゃ、もう狂うこともできやしねえ。そいつを抱えて、せいぜい苦しめ。俺を楽しませてくれよ、相棒。楽にしてほしけりゃ、いつでもしてやるぜ?」
「誰が…!」
虚は一護の視線を受け止め、喉の奥で笑った。一護は動かぬルキアを抱き締めながら、自分が急速に現実世界に引き戻されるのを感じていた。
「待て!ふざけんな……!逃げるのか!」
「逃げてたのはテメェだろ?俺はその手助けをしてただけだ。そもそも……今のお前が、俺に勝てるのか?強くなる理由もわからない奴の剣が、俺に届くわけねぇだろ。……じゃあな、相棒」
虚の声が遠くなり、一護は強い目眩を感じた。必死に瞳をこらしても、もう、何も見えなかった。
* * *
決して広くはない病室の中に、全隊長格が揃い踏みしているという異常な光景に、口を差し挟む者はいなかった。しかし、未だ意識が戻らない黒崎一護と朽木ルキアを前に、卯ノ花は解散を促そうとした。
隊長格が全員この場所にいたら、護廷の機能が止まってしまうことの他に、隊長格の霊圧で、病人が逆に体調不良を訴えてしまうという判断でもあった。そして、仮に黒崎一護が虚化したとしても、隊長格が三人もいれば、足止めには十分すぎると卯ノ花は思っていた。
まだしばらくは、目を覚まさないでしょう。そう言うために治療の手を止めた卯ノ花は、少しだけ息を吸い込んだ。
「ネェさん……?」
はじめに異変に気づいたのはコンだった。首をかしげ、不思議そうにルキアの顔を覗き込む。
卯ノ花は言いかけた言葉を忘れ、すぐに治療を再開した。隊長!と勇音が悲鳴のような叫びをあげる頃には、その場にいた全員が、異常を悟っていた。
怪我を負い、霊圧を暴走させたルキアの霊圧は、普段と比べ物にならない程弱々しい。だがしかし、今の瞬間更に弱くなった霊圧は、このままでは霊圧が消え果て、死んでしまうと誰もが咄嗟に思う程に儚く、小さくなり続けている。
卯ノ花は弛みなく治療を施していた。しかし、治療により身体の中で回復するはずの霊圧は、回復したそばから何かに喰われているかのように、一向に回復の兆しを見せなかった。
弱まりゆく霊圧に、卯ノ花が外見には出さないまでも僅かに焦りを感じはじめた頃、ルキアの急激な霊力の低下は収まった。しかし、死の一歩手前をさ迷うその儚さに、隊長格の顔に緊張が走った。
「一護…!」
コンが呼ぶのと同時に跳ね起きたのは、朽木ルキアと同様に意識を失っていたはずの黒崎一護だった。
何の前触れもなく、唐突に目を覚ました一護に隊長格は驚いた。しかし一護はそれには目もくれず、隣で眼を閉じている存在を揺り起こした。
「……ルキア。……おい!起きろ!ふざけんな!ルキア!」
ルキアの胸ぐらを掴んで乱暴に揺さぶる一護に、卯ノ花が眉を顰めた。朽木ルキアは瀕死の重症を負っており、表面的な傷口は塞いだものの、未だ死の淵をさ迷っている。
「黒崎さん。お止めなさい」
卯ノ花のはっきりとした宣告は一護の耳に届かず、一護はルキアを呼び続けた。たまりかね、卯ノ花が手を出しかけたところで、ぱちりと朽木ルキアが目を開いた。
夢と現の狭間のような表情で、ルキアは一護を見上げ、はっきりと一護に問いかけた。
「……誰だ、貴様は」
朽木ルキアの言葉がすぐには理解できず、周囲は凍りついた。ただ一護だけが、全てを知っているかのように、その場で不自然な平静を保っていた。
「……黒崎一護だ」
「そうか。……私は、誰だ」
「朽木、ルキアだ」
「そうか」
納得したのか、ルキアは微かに頷いた。そしてそのまま目を閉じ、再び眠りに落ちていった。
力を無くした身体を腕の中に支え、一護は顔を歪めた。ルキアの胸に、傷口は無い。けれど流れ落ちる血の感触を、まだ身体が覚えている。
あの血は、朽木ルキアの記憶だった。そして魂そのものだった。
「このバカ……」
憎まれ口を叩き、抱き締めた身体は温かい。それが、一護にはたまらなかった。
まぶたが重くなり、一護の身体から、力が抜け始めた。霊圧を暴走させ、精神世界の闘争から生還した身体は、休息を必要としていた。
(誰だ)
そう尋ねたルキアの、真っ直ぐな視線が脳裏に蘇った。赤い血を流し尽くし、ルキアは真っ白になってしまった。
朽木ルキアの記憶が、消えていた。ことごとく、真っ白に。
それでも、生きていた安堵感が勝った。温かい身体を抱き締め、その体温に縋るように一護は再び眠りに落ちた。耳の奥で、雨の音が聞こえた。