「ギャーーー!」

 コンはまったく唐突に、空から落下していた。何が何だかわからない。恐怖に悲鳴をあげれば、程なく黒い塊の上に着地した。その正体を悟らぬうちに、ひょいと身体を持ち上げ、気づけば目の前にあったのは、求めてやまないものだった。

「何だコン、本当に来たのか。不思議なこともあるものだ」

 そう言って笑うのは、紛れもなく朽木ルキアだった。

「姐さん!」

 いつものように飛びつくこともできず、ただぽろぽろと涙を流すコンにルキアは苦笑すると、コンを自分の肩の上に乗せた。

「姐さん、ここは……?」
「恐らく、一護の精神世界だろう。一護の刀が私を貫いていたのが原因か、あの虚がかつてそうしたように、私も一護が完全に自我を捨てた隙につけ込めたのか……、ともかく現在、我々の意識は一護の中にある」

 ルキアの肩の上でようやく周囲を観察する余裕のできたコンは、視界の中にオレンジ色の髪を持つ死神を見つけ、思わず彼を呼んだ。

「一護!」
「どうやら無駄だ。私も散々試したが、今の一護に、我々の声は届かぬようだ」
「じゃあどうすれば……」
「さあ、どうなるかは試してみなければわからぬな。どうやら、この世界は、意志と霊圧があれば、随分と融通が利くらしい。精神世界だから当然といったところか」

 次にコンは、視線の先に、場違いに美しい景色が広がっていることに気づいた。霊圧の霞が徐々に晴れ、そこに現れたのは、黒崎一護と朽木ルキアだった。穏やかな風が一陣吹き抜け、霊圧の霞を完全に取り去った。それを合図に、目の前の黒崎一護と朽木ルキアが動き始めた。

「姐さん、これは?」
「死神代行最後の日の、私の記憶だ。一護の失った記憶は、この先にある。これにどんな意味があるのか、私にもわからぬ」
「何で、姐さんは俺を呼んだんだ?」
「貴様にも見て欲しかった。本当に呼べるとは思っていなかったが……。もう隠し事はこりごりだからな。お互い」

 お互い、という最後の部分を妙に強調したルキアは、コンの顔を指で弾いた。ルキアはやはり自分の隠し事に気づき、そしてルキア自身の隠し事を、心苦しく思っていたのだろう。

「……これで、一護が止まらなかったら、姐さんどうします?」
「そうだな」

 白く細い指を顎に当て、ルキアは少し考える素振りをした。けれど本当は考えてなどいないのだと、コンにはわかった。
 そしてルキアはふわりと笑った。一護の部屋に居候していたあの頃、暇に任せて外に散歩に行くような気安さで、ルキアは言った。

「諦めて、一護と一緒に我々も死ぬか」
「……ハイ!」

 ルキアの言葉を理解した瞬間、コンはとても大きな声で、一片の迷いも無くルキアの提案を肯定した。一護もルキアも、自分の世界から消えてしまったら、きっと自分は耐えられない。ひとり取り残されることを何よりも恐れていたコンは、共に死のうと言ったルキアの言葉に、驚きよりも嬉しさが勝った。

「こら、そこで張り切るな。あくまで最後の手段だ。……最後までは、絶対に諦めない」

 煌々と光るルキアの瞳が、一護の背中をじっと見つめた。一護は微動だにせず、目の前で展開する光景をただ眺めていた。
 広い世界で動いているのは、偽物の、かつての黒崎一護と朽木ルキアだけだった。二人は目を合わせると、どちらともなく微笑み合った。かつての一護は、ひとつ大きく息を吐いた。その動作だけで、彼は死神代行としての感情にけじめをつけた。僅かに泳いだ視線は、共に戦った、全ての始まりを自分に告げた死神への別れの言葉を探しているのに違いなかった。
 結論が見つかったのか、それとも諦めたのか、かつての一護は笑った。それにつられるようにして、かつてのルキアもまた、一護に笑いかけた。

「じゃあな」
「ああ」

 かつての一護が口にしたのは、あっけないほど簡単な言葉だった。自分達の別れはそれで十分なのだと、かつての一護は知っていた。

(そうだ、最後の日だ)

 一護はただ目の前の夢のような光景を見ていた。この言葉を最後に、自分は死神たちと長い別れを経験することになる。
 このまま二人で穿界門に向かって、そして、もう一度視線を合わせていっそ薄情なほど呆気無く立ち去った。そんな自分を覚えている。

 しかし、目の前にいるもう一人の一護は、ルキアと共にこの場所から立ち去ろうとしなかった。それどころか、もう一度口を開いた。その言葉は、一護の記憶には全く無いものだった。

「……俺が、そっちに行って隊長になったら、お前を副隊長にしてやるよ」

 そう言って、もう一人の一護は口の端を吊り上げた。呆れたように笑いながら、ルキアが応えた。

「また私は貴様のお守りをしなければならんのか。貴様が隊長で、私が副隊長。コンはどうする?」
「部屋の置物にくらいなるだろ」
「そうだな」

 ルキアの肩で夢のような光景を言葉もなく眺めていたコンは、自分の名前が出てきたことに驚き、反射的にルキアを見た。その横顔は、相変わらず食い入るように一護の背を見つめている。

 ふわり、とかつての朽木ルキアが笑った。

「仕方がない。……待っておいてやる」

 まっすぐに視線を合わせ、かつての朽木ルキアは、かつての黒崎一護にそう誓った。一陣の風が、ルキアの髪を揺らした。その光景の片隅では、水色の小さな花が、ふわりと揺れていた。

 そうして二人が微笑み合った瞬間、夢は崩壊を始めた。

 朽木ルキアの作り出したまぼろしが跡形もなく消えゆく。知らず、一護は駆け出していた。その瞳に先程までは無かった光が宿っているのを、ルキアはたしかに見た。

 まぼろしが消え、再び崩れた高層ビルと、止まない雨の世界が姿を現す。走りゆく一護の背に向かって、雨音に負けぬよう、ルキアは叫んでいた。

「思い出せ!一護!思い出せぬなら、私の記憶をみんなくれてやる!だから、前を向け!立ち上がれ!戻って来い!ここに!」

 その言葉と同時に、一護の世界に雪が舞った。雨と雪が同時に天から降り注ぐ不思議な光景を、コンは言葉もなく見ていた。雪の結晶が身体に当たる度、コンの頭の中に見たことも無い光景が広がる。これは、この雪は、朽木ルキアの記憶だ。死神代行最後の日から、再び一護に出会う日までの、朽木ルキアが一人であの約束と共に歩いてきた時間の記憶だ。

「姐さん!」

 たまらなくなってコンが叫ぶと、ルキアはコンを肩から降ろした。

「死ぬのは中止だ。コン、貴様は先に帰れ。私たちを待っていろ。……絶対に、一護を連れ戻す」
「ハイ!」

 身体いっぱいに雪を浴びて、コンはもうほとんど泣きかけていた。ルキアの指示に返事をすることが精一杯なコンを、ルキアは優しく撫でた。

「それにしても、ひどい有様だな。……私が戻ったら、直してやる」

 ちぎれかけた手足を慈しむように触れてから、ルキアもまた、一護を追って走り出した。
 最後に頭を撫でたその手の暖かさを、コンは絶対に忘れない。



「うああああ!」
「な、なんだ!?」

 微動だにしなくなったと思ったら、突然奇声をあげて動き出したコンに、隊長格は一瞬固まった。
 けれどそんな空気を気にすることなく、コンはルキアの胸に縋りついて喚くように泣いていた。

「姐さん!ネェさぁん!」
「おい、何だったんってんだ一体……」
「ウルセェ!」

 宥めに入った恋次を、コンは一喝した。その間にも涙はぼたぼたとコンの布の身体を濡らしていた。

「いいか!?姐サンはなあ、ずっと待っててくれたんだぞ!俺たちがいつ来てもいいように、俺たちの居場所をちゃんと用意して、ずーっと一人で待っててくれたんだぞ!これが泣かずにいられるか!」

 雪を浴びる毎に頭に再生されたルキアの記憶の中には、死神代行最後の日から、再び一護に出会うまでの記憶が詰まっていた。

(あの、隊長。この箱をもらって良いですか?)

 おずおずと、浮竹に届けられた菓子の箱に手を伸ばすルキアの姿をコンは見た。肌触りの良い布を探し、自らの手で、コンに丁度いい大きさの布団とクッションを縫ってくれたことも、もうわかっている。大切に手入れされ、季節がめぐる度に中の綿を入れ替え、一度も使われることなく古くなったら、また新しいものを繕い直した。数十年の時を経て、ようやく日の目を見たそれらは、『その辺に転がっていた』というとてもぞんざいな言葉でコンに与えられた。
 コンはちぎれかけた腕で、乱暴に涙をぬぐった。
 一護が来るまでほとんど使われなかったルキアの部屋には、実は重要な役目があった。天気の良い日、部屋で一番日当たりの良い場所に、ルキアが縫った小さな布団が、いつもちょこんと干されていた。誰にも気づかれないまま、コンの居ない場所で、コンの布団は日の光を浴びていた。
 ルキアはずっと自分達を待っていた。一護だけではなく、自分も待っていてくれた。
 知らぬ間にルキアから注がれ続け、そしてきっと本人は気づかれぬままでいいと思っていたに違いない慈しみの前に、コンはどう応えればいいのかわからなかった。

「姐サン!頑張れぇ!一護を連れ戻せ!姐サン!頑張れぇぇぇ!」

 繰り返しぬぐっても溢れ続ける涙に、コンはそれ以上の抵抗を放棄した。ちぎれかけた両腕を振り上げ、天に祈るようにしてわあわあと泣いた。






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