ルキアは叩きつける雨の中を真っ直ぐに走っていた。横向きに並んだ高層ビルの群れが、風雨に晒されて崩れた。この世界がどこなのかを、ルキアは本能で悟っていた。ここは、黒崎一護の精神の内部に違いない。そして、今この場所は崩壊の危機に瀕している。
「一護!」
声の限りにルキアは叫んだ。けれど、返事はない。ルキアは小さく舌打ちすると、立ち止まって周囲を見渡した。ビルの大半は崩壊し、もう原型を留めているものは少ない。不意に地面が揺れたと思った瞬間、重力の作用する方向が変わった。ビルの窓を踏みしめていたはずなのに、気がつけばルキアは、今まで横だと思っていた方向に落下していた。またひとつビルが崩壊をはじめ、残骸がルキアの上に降り注ぐ。
それを避けながら何とか地面に着地すると、再びルキアは走り出した。この雨を、自分はよく覚えている。肌を打つ感触に、あの日の記憶が蘇った。胸に溢れる感情を飲み込み、ルキアは一護の名を呼びながら走った。そうしているうちに、視界の端に、捜し求めていたオレンジ色を見つけた。
「……一護…!」
崩壊したビルの先に、一護は一人立ちすくんでいた。ルキアが呼びかけても返事はない。崩壊する建物から自分を庇うこともせず、その目は、ただぼんやりと崩れゆく世界を眺めていた。
ルキアが一護に駆け寄ろうとすれば、それを阻止するかのように、一護とルキアの間に建物の破片が降り注ぎ、その道を塞いだ。
道を塞ぐ瓦礫の山をよじ登り、ルキアがもう一度一護の名を呼べば、その声をかき消すかのように雨が強く降り注いだ。
「一護!一護!」
どんなに近くで、どれだけ声を張り上げても、一護には届かないと本当はわかっていた。届かぬ声と知りながらも、ルキアは叫び続けた。雨の音に混じって、ルキアの頭の中には、かすかな子供の泣き声が聞こえていた。それが誰の泣き声なのか、ルキアにはよくわかっていた。
『何故』
不意に、かすかな声が、世界に響き渡った。動かなかった一護が、弾かれたように顔を上げた。その表情は、まるで15歳の子供のように幼かった。
『何故、強くなる?』
はっきりと響いたその声に、一護の瞳が揺れた。一護の口がかすかに、『わからない』という形に動いたのをルキアは見た。声が響いてからは、世界の崩壊が一層早くなったようだった。
「一護……」
頭に響く泣き声が、一層大きくなった。一護が泣いている。あの日の雨の中に取り残された決意の置き場所を、見つけることができないのだと泣いている。
ルキアは、無意識に一護に刺されたはずの脇腹をそっと撫でていた。自分が意識を失う直前、一護の悲しみは、虚の気配と共に、突き立てられた斬月によって伝わった。
そうだ、あの虚は何と言っていた?
ルキアの頭に閃いた疑問とその回答は、単なる思いつきに過ぎない。けれどルキアはそれに縋った。それはおそらく、世界中でルキアただ一人しか知らない出来事に違いなかった。
(あれだけが邪魔だった)
あの虚は、たしかにそう言っていた。ルキアは絶望に伏せた顔を上げ、正面を睨んだ。完全に絶望するには、あと一歩足りない。ルキアは気づけば握り締めていた己の斬魄刀を、地面に突き立てた。
「一護!」
斬魄刀に渾身の霊力を込めるのと同時に、ルキアは叫んだ。
「思い出せ、一護!思い出さぬなら、私の記憶をくれてやる!なにもかも持っていけ!」
突き刺した刀を中心に、ルキアの霊力が一護の世界を組み替えていった。建物の破片は消え去り、草原が足元に広がった。その傍らには青い花が揺れている。雨はやみ、澄んだ青空が二人の頭上に広がった。瑞々しい草花の香りを孕んだ一陣の風が通り抜け、ルキアの霊圧は、最後に二人の人間の姿を形作った。
別れの日の、朽木ルキアと黒崎一護が立っていた。
ルキアの霊力が作り出したのは、あの別れの日のまぼろしだった。一護の瞳が、ゆるゆるとまぼろしの二人に焦点を合わせるのを、祈るような気持ちでルキアは見ていた。
*
「い……一護さん!ルキアさん!」
四番隊に運び込まれた一護とルキアを見て、花太郎は悲鳴に近い叫び声を上げた。
「落ち着きなさい。二人ともまだ生きています。朽木さんはかなり危険な状態ですが……ともかく、最も危険な傷は塞ぎました。治療を続ければ、必ず助かります」
卯ノ花が告げる『最も危険な傷』とは、ルキアの脇腹にべたりとついた血の染みのことだろう、と花太郎は思った。その他にも、ルキアの身体には浅い傷が幾つもできていた。長年の経験で、花太郎はその傷が虚との戦闘でついたものではないとすぐにわかった。知ってはいけないと頭の冷静な部分が告げたが、それを問い詰めずにはいられなかった。
「なんで、どうして刀傷なんですか!」
黒崎一護の傍らに、血で染まった斬月が置かれていた。花太郎はあえてその意味を考えなかった。しかし、その花太郎の努力は、朽木白哉の事務的な報告によって、完全に無意味なものになってしまった。只事ではない気配に駆けつけた隊長格の前で、白哉は端的に事実だけを口にした。
「ルキアの傷は、全て黒崎一護との戦闘によるものだ。黒崎一護はルキアを殺害しようとしたが、失敗した」
「ちょ……隊長!」
「事実だ」
あまりの物言いに、恋次が口を挟みかけたが、『事実』の一言に一蹴された。そして、その言葉の前に恋次が黙ってしまったことで、かえって白哉の言葉が聞く者に一層重くのしかかった。
「一護さんがルキアさんを殺そうとするなんて、あるわけないじゃないですか!」
泣きそうな顔で花太郎は叫んだ。そんな当然のことを、ここにいる隊長格の誰ひとり否定しないことがもどかしかった。何を知っているのか、隊長格たちはただ沈痛な面差しで、一護とルキアを見下ろしていた。
「……一護君の処遇はどうなる。見たところ、彼に外傷は無いが」
絞り出すように呟いたのは、彼等の上司である浮竹だった。彼は、上司として、この二人に起きた異変に深く心を痛めていた。
「牢に入れて置かねばならぬじゃろうな」
総隊長の言葉に、隊長格の間にも緊張が走った。花太郎はもう一度、納得できないと叫ぼうとした。それを制したのは、卯ノ花だった。
「お言葉ですが総隊長、この状態でどうやって一人だけを牢に運ぶおつもりですか。ここに運びこむだけでも、とても苦労したというのに……。朽木ルキアさんの治療は急を要します。彼女の治療が終わらない限りは、絶対に二人とも、ここを動かすことは許しません」
この状態、というところで、卯ノ花は二人の手元に視線を落とした。そこには、固く繋がれた二人の手があった。一人ずつ運び込もうと、何度も引き剥がそうとした。けれど、意識を失っているとは思えぬ力がその邪魔をした。このままでは担架も使えなかった二人を、卯ノ花は己の斬魄刀で一纏めに四番隊へと運び込んだのだった。
「成程。それでは仕方あるまい。黒崎一護の処遇は治療が終わってからとして……お主が感情的になるのは珍しいの」
総隊長が片目をぎょろりと動かして朽木白哉を見れば、少しだけきまり悪そうに、白哉が目を逸らした。しかし有無を言わさぬ視線に促され、浦原喜助に語られた真実を少しずつ語り始めた。
「かつて、幼い黒崎一護の母親を殺害した虚がいた。黒崎一護は、母の仇を取ることが目標だった。しかし、その虚はとうの昔に死んでいた」
語られる黒崎一護の意外な過去に、隊長格は瞠目した。そして息を詰めて次の言葉を待った。
「それを知ったショックの隙を突き、此奴の虚が現れた。以前にも似たようなことがあったと浦原喜助が話していた。おそらくルキアもそれを知ったのだろう。そして、あの虚を消し去ろうと考えた」
「ちがう」
白哉の語りをはっきりと遮ったのは、枕元でぼんやりと一護とルキアの顔を見つめていたコンだった。一護とルキアの他に、手足のちぎれかけたぬいぐるみも、この空間では注目を集めていたが、コンは四番隊へと辿り着くまで一言も言葉を発さなかった。
「姐さんは何も知らなかった。あの時、姐さんはいなかった」
話しているうちに、ビーズの瞳が徐々に感情を取り戻す。その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ自分自身の情報を整理しているかのような、抑揚の無いものだった。
「あの時、皆軽く考えてたんだ。一護なら大丈夫だろうって、勝手に信用してたんだ。だから、死神代行を辞めた後に話したんだよ。母親を殺した虚はもう居ないってことがわかれば、心置きなく人間に専念できるってな。……でも、違った」
「先程と同じことが起きた、か」
「もっとひどかった。霊圧を暴走させた後……あいつが出てきた。あいつは、俺たち皆を殺そうとした」
『テメェらのおめでたさには感謝してるぜ』と口の端を吊り上げて笑った虚の顔を、コンは鮮明に覚えている。
あの時、一護の顔をした虚は、狂喜に歪んだ顔で言った。
『あの女はいねえのか!残念だったな!もう手遅れだ!』
テッサイが縛道で抑え、夜一が応戦し、ジン太とウルルもそれぞれに武器を取った。戦闘の果て、皆を庇い大怪我を負いながらも浦原喜助が一護の記憶を消し去り、事態が一応の解決を迎えるまで、コンはただ見ていることしかできなかった。
「あの時、あの虚は一護の中から記憶を消しちまったんだ。姐さん以外誰も知らない記憶を、姐さんは取り戻そうとしたんだ。あの虚が姐さんを狙ってるのがわかってたから、ゲタ帽子は俺に一護と姐さんを監視するように言ったんだよ。でも姐さんは、最初から気づいてたんだ。何かおかしいって。姐さんが怪しんでることにも、俺は気づけなかったんだ。俺が気づかなきゃいけなかったんだ。だって俺は、6月17日に、一護と姐さんと一緒にいたんだから」
どれだけの決意があの日に詰まっていたのか、自分だけは理解できたはずだった。それなのに、自分は止めることも、不安に思うことすらしないまま、ただ物語のヒーローを信じるように、何も考えず一護を信じた。
「一護と姐さんは、あの虚に会ったんだ。一護が死神になって最初の6月17日。……一護の母親の命日に。一護がボロボロにやられて、それを姐さんが必死に治した。あいつは逃げて、結局誰も死ななかった。一護も姐さんも、あいつも死ななかった。だからいつか、いつか」
いつか仇を討つ。いつの日かきっと、乗り越える。そんな綺麗な未来を紡ぐのだと、コンはただ信じていた。それはきっと、信仰に近かった。
最後にポツリとコンが呟いた言葉を、一瞬誰もが聞き逃した。
「神様だったんだ」
コンは、あの黒崎家での毎日を思い出していた。いつ死ぬかと怯えていた日々が嘘みたいに、賑やかな、夢のような日々だった。それを自分に与えてくれたのは、今目の前にいる二人だった。名前も身体も、そして居場所も、この二人が自分に与えてくれたものだった。
「知っています」
独白に聞こえたその言葉に、思いがけず返事があった。一歩前に進み出たのは意外な死神で、その場に居た者は驚きの眼差しで彼女を見た。
その視線を意に介さず、普段通りの無表情で涅ネムは言葉を紡いだ。それは、普段の彼女からは意外な程に、強い口調のものだった。
「あなたの神様を信じなさい。それが、つくりものの務めです」
コンのビーズの目玉が、湧き上がる感情に揺れた。
「わかってるよ、チクショウ」
ネムは僅かに口元を緩ませ、それ以上は話さなかった。
コンは乱暴に滲んだ涙をぬぐった。彼女も確固たる神を持ち、それを心から信じている。それは、つくりもの以外には理解できない感覚に違いない。
もう一度何気なく一護とルキアに視線を移したところで、コンはふと動きを止めた。
呼ばれている気がした。声は小さいが、たしかに、はっきりと、よく知っている声が自分を呼んだと思った。
「姐さん……?」
導かれるようにコンはルキアの身体ににじり寄り、その頬にそっと手を押し当てた。
「わっ!?」
「な、どうした!?」
コンがルキアに触れた瞬間、コンは唐突に意識を失い、ぬいぐるみの身体が、ぽふ、と軽い音を立ててルキアの身体に倒れ込んだ。
慌ててその身体を拾い上げた恋次は、持ち上げても揺すっても反応を示さない、ただのぬいぐるみと化してしまった存在に絶句した。
「何が起きてんだ……」
呆然とした、僅かに苛立った声に、返事できる者はこの場所にはいなかった。