「なっ……」
「縛道の三十七、吊星」
その言葉を遮るかのように、一護の霊圧がコンを襲った。コンの言葉に、恋次は瞠目した。そして、ゆうに十メートルは跳ね飛ばされ、彼方へと飛んでいくコンの身体を支えたのは、白哉の放った鬼道だった。
コンは身体を起こすと、再び一護とルキアに近付いた。脆いぬいぐるみの身体は、一護の霊圧を受けたことで、壊れてしまっていた。右腕と右足はちぎれかけ、顔からも身体からも綿が出てしまっている。ちぎれかけた足を引きずり、霊圧を放出している一護を見る。そこにあった姿に、コンは泣きそうになった。
「ネェさん……」
両膝をつき、ただ呆然と霊圧を放出している一護の頭を、何かから守るかのようにルキアが固く抱きしめていた。
あの霊圧の放出を、間近で受け止めきれるはずがない。そこでコンは気付いた。暴走する一護の霊圧に混じって、もうひとつ。一護のすぐ隣で、暴走している霊圧があった。
「ルキア!やめろ!死んじまうぞ!」
同じ事に気付いた恋次が叫ぶ。瀕死の状態で、無軌道に霊圧を解放し続ければ、いずれ霊圧は枯渇し、死んでしまう。けれどその声は、ルキアの耳には届かなかった。ルキアが意図して行っているのかはわからないが、一護と同じように霊圧を暴走させ、一護の霊圧を打ち消すことで、ルキアは一護の傍にいることができていた。
「泣くな。泣くな、一護。泣くな」
ルキアは、腕の中の子供にうわごとのように声をかけ続けた。見開いた目には、兄の姿も、幼馴染の姿も、コンの姿も映っている。だが、ルキアは彼等を知り合いだと理解できなかった。
身を挺して子供を庇う母親のように、ルキアは一護を抱きしめながら、周囲を睨んでいた。
「いち……ごっ……!」
「姐サン!」
「ルキア!」
霊圧が限界を迎え、ルキアは一護の霊圧に跳ね飛ばされた。地面を転がったルキアは、それでも上体を起こし、一護の元へ辿り着こうと地面を這った。自分の身体の重みで、斬月がさらに深く、ルキアの腹にめり込んだ。
「いちご、いちご、いちご……」
身体に深々と突き刺さった斬月が、一護の悲しみを、直接ルキアに伝えていた。傷口は痛くない。ただ、熱い。
「ルキア!やめろ!」
恋次の叫ぶ声は、ルキアの耳には届かない。
ぽつりと、一粒の雨がルキアの頬を濡らした。それを合図に、あの日と同じ温度の雨が降り注ぐ。
ルキアの耳には、たしかに、子供の泣き声が聞こえていた。それは、九歳の子供の泣き声に違いなかった。
一護もルキアも、もうここにはいなかった。二人がいるのは、あの6月17日だった。雨に濡れる二人は、かつての死神代行と、力を失った元死神だった。
ルキアは、あの時の誓いをずっと忘れてはいない。6月17日が、自分達も知らぬうちに終わりを迎えていたと知った今でも。
(助けなければ)
一護が、母の仇を取るために強くなると誓ったその時、ルキアもまた誓った。一護の決意がぼろぼろに砕かれてしまった今でも、ルキアの決意はまだ生きていた。そして、その意志は、揺らぐことのない灯台の明かりのように、ルキアを導き、突き動かしていた。
(私が助けなければ)
(この、不器用で、弱い、あわれな、かなしい、こどもを)
この子供を見守り、絶対に死なせはしない。この子供の為なら、自分の命など、少しも惜しくはない。絶対に私が守る。他の人間を、守りたがってばかりいる子供を。
守る。
「いちご……いちご…っ…!」
「姐サン!……逃げろ!!早く!!」
一護がどさりと地面に崩れ落ち、倒れるのと同時に、その霊圧が次第に収束を始めた。コンは次に何が起きるのかを悟り、叫んだ。
かつて、浦原商店の地下室で、同じ事が起きた。あの時、一護の霊圧は暴走した後、不意に平静を取り戻した。そしてその後に現れたのは、破壊しか頭にない、一護の形をした虚だった。
みんな、みんな殺されてしまう。自分に全てを与えてくれた二人が。
そんな声すら、ルキアの耳には入らなかった。ルキアは倒れた一護の元へと這い寄ると、その指先を強く握った。ただ手を握るだけで、耐え難い一護の悲しみがルキアへと伝わる。
あの再会の日、自分達の墓の前で、互いの指先にそっと触れることしかできなかった。それで十分だと信じていた。あの時にこの手を強く握り締め、自分の全てを晒していたら、何かが変わっていただろうか。
雨が降っている。終わったはずのあの日は、自分達二人だけを雨の檻に閉じ込めたまま、未だ亡霊のようにこの場所に佇んでいる。あの時の少年は、救われないまま。
「いちご……っ!」
ルキアは泣きそうに顔を歪めて、泥と血と雨で汚れた自分の頬を、倒れる一護の頬にすり寄せた。
ルキアの頭の中に響く子供の泣き声が、一層大きくなった。ルキアはまぶたの裏に、幼い子供の姿を確かに見ていた。
ルキアはもう動かぬはずの両腕を持ち上げ、母を亡くして泣く、九歳の子供をはっきりと抱き締めた。
同じ瞬間、一護の手が、ルキアの手を強く握り返した。
「ネェさん!ネェさん!」
コンがルキアを少しでも一護から引き離そうと、ちぎれかけた手足を曳いてルキアの元へと走り出した。自分の危険など、はじめからどうでもよかった。目の前の二人が壊れてしまうなら、自分もまた、この世界に未練などひとつもなかった。足を一歩踏み出す度、雨とルキアの血液とでぬかるんだ泥が跳ねる。自慢の俊足が、壊れたぬいぐるみの身体では発揮できないのがもどかしかった。
「ネェさん……?一護……?」
コンの歩みがぴたりと止まった。
かつての浦原商店で起こった出来事は、再現されなかった。
その代わり、死んだように意識を失った二人が、コンの目の前で寄り添い、倒れていた。
「一護!ネェさん!なあ!目ェ開けろよ!」
ぬいぐるみの手が、二人の顔に触れた。雨に打たれた二人の頬は冷え切り、温度が無い。
「恋次。四番隊を」
「とっくに呼んでますよ!隊長自ら、もうすぐ来るそうです」
足早に、恋次と白哉もまた、倒れた二人に近づいた。流れるルキアの血液に、顔を顰める。ぬいぐるみは、一護とルキアに触れたまま、ぴくりとも動かなかった。
「いい加減に姿を現せ。説明しろ」
白哉が強い口調で呼びかければ、周囲で複数の気配が動いた。次の瞬間、六番隊主従の目の前に現れたのは、黒猫と筋肉隆々の大男、そして下駄に帽子を被った男だった。
浦原喜助は、睨み据える白哉の視線をはっきりと見返して、口元を歪めた。もうどこから説明すればいいのか分からない、古い、古い話だった。
「テッサイ、朽木サンの治療を。……説明は、さっき彼女がしてくれましたよ。他に話すことなんてほとんど残っちゃいない」
「そうか。それでは、ここで兄は死ね」
「白哉坊。落ち着け。喜助!貴様もだ。何をかたくなになっておる?」
真顔で刀を抜きかけた白哉を、夜一が制した。黒猫の鋭い視線は、白哉と浦原に等しく注がれた。容赦ない視線に晒されても尚、浦原は歪んだ笑みを崩さなかった。
「そんなに言うなら、説明はしますよ。……でも、全ては無理っス。だって、まだ終わってない。まだ、アタシは見届けることがある」
「どういうことだ」
「喜助。儂にもまだ隠し事があったのか」
浦原は、言いながらそっと懐に手を当てた。そこには、帰り際にルキアから渡された、一通の手紙が入っている。
「朽木サンの依頼は、まだ終わってない。邪魔をするなっていう命令は、まだ生きてます」