ルキアの言葉に、白哉も、恋次も言葉を失っていた。そんな中、思わず口を開いたのは、恋次の肩の上にいたコンだった。


「姐さん……何で知って……」

隊首会に乱入して叫んだ後、ここに来るまでほとんど何も喋らなかったぬいぐるみの呟きに、恋次が眉を顰める。一体何が起きているのか、未だ把握できなかった。

「何で俺だと思うんだ?」
「あの場所には、一護と私しかいなかった。我々以外誰も知らない記憶を消せるのは、貴様しかいない」
「一護は誰かに話してるかもしれないぜ?」
「言わない。一護は絶対に、誰にも言わない。答えろ。何故消した……!……あんな、つまらない、どうでもいい、記憶を」
「そのつまらないどうでもいい記憶のために、お前は死ぬのに?」


 何故知っているのか、と考えていたコンは、ようやく自分の間違いを悟った。あの日の出来事とは別に、一護の中から消された記憶がある。それは、朽木ルキアしか知らない記憶であるらしい。その二つの記憶が無関係だと思えなかった。
一護の顔が、歪んだ笑みを形作る。話している間にもルキアの身体からは血が失われ、その顔色は蒼白になっている。それでも、誰も朽木ルキアを止めることができなかった。

「逃げたんだよ」
「どういうことだ……!」
「お前も、本当は気付いてるんだろ?コイツは逃げたんだよ。全部から。だから俺がコイツの記憶を触れた。俺が表に出てくる時に、アレだけが邪魔だった。アレさえ消せば、コイツはいつか俺に屈服する。だから消した」
「逃げた、だと……!?」
「ああ。お前はいなかった。その記憶は消されちまった。残念だったな、斬魄刀突き刺して自分の霊圧を叩き込んでも、ずっと同じ部屋に入り浸って監視してても、コイツは何にも思い出さねえよ」

 虚は至極楽しそうに、ルキアの徒労を嘲った。かつて、一護の身体に叩き込んだ朽木ルキアの執念のような霊圧は、一護の中で、夢としてあの日の記憶を呼び覚ました。けれど、失われた記憶の場所で、夢はあっさりと黒に飲み込まれて消えてしまった。
 やはりこの虚は知っていたのだ、とルキアは思った。自分が気付いていることも、自分が一護に霊圧を送り込んだ意味も、四六時中行動を共にしていた真の意図も、何もかも。

「何が…何があった!私のいないところで!何が!」
「さあな。あの悪徳商人か、そこの人形にでも聞いてみろよ。……生きてたら、な」

 一護の形をした虚が、斬魄刀に霊圧を込めた。朽木ルキアはずっと刀を己の首に突きつけていたが、それが単なるポーズに過ぎないことなどわかりきっている。自分を殺すどころか、自分の為に平気で命を投げ出す女だ。今、このときも。
ルキアの顔が苦痛に歪み、口から血が滴った。それでも一護を真っ直ぐに睨み据え、ルキアは言葉を紡いだ。

「縛道の六十三。鎖条鎖縛」

 霊圧の鎖が、ルキアごと、一護を締め上げた。斬月が深く自分の脇腹に刺さるのにも構わず、締め上げる力の分だけ近付いた距離に、ルキアが両手を伸ばした。

「戻れ!」

 その目を真っ直ぐに見据え、ルキアは叫んだ。白と黒の反転した目に、僅かに浮かんだ動揺の影を、ルキアは見逃しはしなかった。

「聞こえるか一護!戻ってこい!ここに戻れ!」
「……くそっ」

 一護が舌打ちするのと同時、歪んだ虚の霊圧が収束を始めた。一度強く目を閉じた一護が、再び目を開くと、その目の色は、いつもの澄んだブラウンに戻っていた。
 それを確認し、安堵したように、ルキアは息をついた。かしゃん、と軽い音を立てて、霊圧の鎖が粉々に砕け散る。それと同時に力尽き、両膝を地面についたルキアの上体を、一護が支えた。

「どういう……ことだ……?」
「気にするな」

 一護に体重を預けたまま、力なくルキアは笑った。その言葉に、一護の目が苛立ちを纏う。
 自分の斬魄刀が、朽木ルキアの脇腹に深々と刺さっていた。それを成したのは、紛れもなく自分自身だった。自分は朽木ルキアと会話をし、そして殺そうとした。その会話の中身は、当事者であるはずの一護には、全くわからないものだった。

「何でこんな…どうして!」
「仕方あるまい。……迷わぬと誓った」

 ルキアは再び笑った。ルキアがその誓いを立てた瞬間に、一護は立ち会っていた。
ルキアはあの再会の日からずっと、自分の異変に気付き、いつかこうするつもりでいたのだろうか。
 一護は、強い力でルキアの死覇装の胸あたりを掴み、ぐっと自分の顔に引き寄せた。

「俺は何を忘れてる」

 乾いた、抑揚のない声で一護は聞いた。もう目を開ける気力すらないのか、ルキアは目を閉じたまま、はっきりとわかる自嘲の笑みを零して答えた。

「つまらない、どうでもいい記憶だ。気にする必要はない」
「ふざけるな!何でだよ!何で俺は忘れた!?」

 一護は今度こそ怒鳴った。ルキアは大怪我をしているというのに、当事者であるはずの自分が、どこまでも蚊帳の外にいることに納得がいかなかった。
 一護の声に、ルキアが目を開けた。その目は、一護と同じか、それ以上の怒りで煌々と輝いていた。

「何で、か……それはこちらの台詞だ」

 ルキアは、瀕死とは思えぬ力で一護の胸ぐらを掴んで引き寄せた。近すぎる顔の位置に、目を逸らすことは許されなかった。

「何があった!何故私を呼ばなかった!どうして貴様は成長しない!浦原は、どうして私を待たなかった!浦原は何を恐れていた!答えろ!」

 再会してから、一護の外見に変化は全く見られなかった。虚化したのだから、と人は言う。けれど、ルキアはそれが真実だと思えなかった。何かがおかしい。そう本能的に感じたのは、出会った瞬間からだった。思えば、一護がこの世界に来たその方法すら、違和感を覚えずにはいられなかった。
 一護が死んだら、自分が迎えに行こうと思っていた。けれど、ルキアのささやかな希望などあっさり見透かしているはずの浦原は、それをさせなかった。
 浦原は、一護が死神になって、空座町に留まることを恐れていた。正規の手続きを踏めぬ程急ぎ、一護をソウル・ソサエティに送り込んだ。それは、何故か?
 何かがあったに違いなかった。一番悔しかったのは、その場所に自分がおらず、一護に何かがあった時、呼ばれもしなかったことだった。

 目の前の存在が、黒崎一護であればそれでいい。彼に何があろうと、何を忘れていようと。そう納得しようとした。けれどできなかった。
 迷うなと、そう言ったのは、彼自身だったのだから。

「答えろ……!どうして」

 これ以上は言ってはいけない、と理性が叫んでいた。けれど、言葉は止まらなかった。
 これ以上言えば、自分の醜い本心が知られてしまう。一護を心から心配していた。何が起きたかを探しているのは、一護の為だった。そんな事実で覆い隠していた、醜い真実が露わになってしまう。

「どうして忘れた……」

 私はずっと覚えていたのに。
 耳の中に、あの虚の笑い声が蘇る。こんな情けない声を出したら、もう言い逃れはできない。一護を心から心配していた。けれど、哀れんでいたのは、自分自身だった。
 あの約束を、ルキアは忘れることはなかった。あの約束を思い返すだけで、温かい幸福がルキアを満たした。あの約束は、ルキアの大切な部分を支えていた。あの日の空気は、一護と別れてからの長い時間に、少しも損なわれず、常にルキアと共にあった。副隊長をいくら勧められても、受ける気にはなれなかった。ただの口約束だと、自分に苦笑しながら、それでも、自分一人しか知らない、あのささやかな約束のために生きる時間は、息が詰まるような幸福だった。
 その約束を、一護は覚えていなかった。その記憶を取り戻すと、真実を見つけると誓ったのは、一護のためではなく、きっと自分自身のためだった。

 顔を歪めたルキアに、一護が言葉を失った。がくりと力を失ったルキアの身体を支え、途方に暮れたように舌打ちする。こみ上げる怒りの矛先がわからずに、一護は苛立ちのまま叫んだ。

「何だってんだよ!畜生、何が起きた!」

 その悲痛な叫びを、六番隊の隊長と副隊長、そして黄色いぬいぐるみがただ呆然と聞いていた。コンは覚悟を決めると、六番隊副隊長の肩からひょいと飛び降りた。

「あ、おい」
「なあ!さっきみたいに鬼道ってやつでよ、自分の前しっかり盾張っとけよ!今からちょっと危ねえからな!頼むぜ!」
「……貴様はどこに行く」
「俺が言わなきゃいけねえんだ。邪魔はすんなよ!」

 最後に刺した釘は、六番隊の二人ではなく、どこからか見守っているにちがいない、駄菓子屋店主に向けてのものだった。
場違いなほど軽い足取りで、コンは一護とルキアに近付いた。思い出すのは、遥か昔、黒崎家のあの部屋で、大騒ぎしていた日々。そして、あの、6月17日。
 きっと雨が降る。
 空を見ながらコンは思った。それは、あの日と同じ温度の雨に違いない。コンは、大きく息を吸い込んだ。

「教えてやるよ!何があったか!耳を澄ませてよーっく聞きやがれ!」

 コンの言葉に、一護がぴくりと動いた。同時に、ルキアも微かに瞼を開いた。
 息を呑んで、次の言葉を待った。それは、一護とルキアが捜し求めている真実に違いなかった。


「6月17日のあの虚はな……もういやしねえよ!いねえんだよ!死んじまったんだ!とっくに殺されてるんだよ!」

 コンの声を聞いたその瞬間、一護の霊圧が爆発し、コンは派手に吹っ飛んだ。飛ばされて自分の近くに落ちたコンに、白哉の鬼道によって守られていた恋次が慌てて手を伸ばす。けれどコンは、その手を取らず、ヤケになったようにまた叫んだ。

「一護!テメェの目の前で母親を殺した虚は死んじまったんだよ!もう二度と、仇なんて取れねぇんだよ!」






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