ルキアを背に乗せ疾走する一護は、大虚の気配に舌打ちした。空の割れ目から、こちらを見つめている大虚は、自分達の姿を見つけると同時に、こちら側の空間へと身体を滑り込ませ始めた。
その反応に、一護の中で、考えないようにしていた疑問が再びわき上がった。
自分が呼んでいるのか?
自分がいない間、ほとんど現れなかったはずの大虚が、何故短期間にこんなにも大量に出現しているのか。理由はわからなかった。けれど、根拠のない不安が一護の中に生まれていた。
「このたわけが!余計なことを考えるな!」
「グエッ!おま…首締めんな!殺す気か!」
背中から腕を伸ばしたルキアが、一護の首を容赦なく締め上げた。あまりのことに一護はむせ返ったが、ルキアは平然としている。
「いいか、惑うな!」
「わかってるよ!」
ルキアの命令に、一護は怒鳴り返した。自分にできることは、今目の前にいる大虚を倒すことだけだと、思考を切り替える。
「卍解!」
「舞え、袖白雪!」
一護が卍解するのと同時に、ルキアも自分の刀を解放していた。一護ほどの攻撃力はないが、大虚を攪乱し、油断があれば仕留めるだけの実力は、ルキアにも備わっている。
それでも、戦いながら一護は、自分達の不利を悟っていた。敵の数が、多すぎた。
大虚は十体。未だ扱いかねている卍解では、心許なかった。かといって、以前のような死神の力の譲渡は禁じられている。打てる手は、あとひとつ。うまくその力を解放できれば、大虚の十体など、軽く屠れるはずだった。
ただし、卍解と同じく、その力を御しきれるかどうかの自信が一護にはなかった。気を散らし、一護の頬が傷つく。体勢を整えるために一旦地面に着地した一護の横に、数拍遅れてルキアも着地した。横目で一護を睨み、強い口調で叱咤した。
「一護。二度言わせるな。惑うな」
「……わかってる」
卍解が通用しないならば、他に手はない。一護の背中を押したのは、全てを見透かした、相棒の一言だった。大きく息を吸い込むと、一護は一歩前に出た。
焦燥と、もう一つの原因が、一護から判断力を奪っていた。かつての黒崎一護なら、ルキアの言葉の違和感に気付いただろう。
朽木ルキアが、この状況で、一護自身を危険に晒す賭けになど、出るはずがないのだと。
「ルキア。ここから離れるなよ。もし俺が見境無くなったら、止めてくれ。無理だったら……逃げろ」
「わかった。任せろ」
ルキアは静かに嘘をついた。それを、一護は悟ることができなかった。
ルキアはずっと、この時を待っていた。一護が再び自分の前に現れたときから、ずっと。
一護は前に進み出ると、手を顔の前にかざした。その手に霊圧が集まり、白い仮面を形成する。それを、ルキアはどこか他人事のようにぼんやりと見ていた。
一護の霊圧が、徐々に黒く染まりゆく。それを見ながら、ルキアは過去を思い出していた。出会った日、6月17日、そして、死神代行最後の日。
もう取り繕う必要のない顔に、はっきりと自嘲の色が浮かんだ。
けれど、立ち止まる気は全くなかった。迷わないと宣言した。他の誰でもなく、黒崎一護に。
一護の刀に、黒い霊圧が乗った。その圧倒的な力は、たちまちに大虚を殲滅していった。霊圧は膨れ上がり続けている。大虚を倒した今でもなお、それは変わらなかった。そして、文字通り一瞬で大虚を屠った一護は、仮面を付けたまま、ルキアを振り向いた。最後の獲物を見つけ、仮面の下で、一護の顔が歓喜に歪んだのが、何故だかはっきりとわかった。
ルキアは、袖白雪を真正面に構えた。ルキアもまた笑っていた。ずっとずっと、邂逅を待っていたのはお互い様だ。
「さあ、決着をつけよう。すべてに」
一護が躊躇いなく自分に月牙を振り下ろす瞬間を、ルキアは夢の中の出来事のように見ていた。自分の刀が唸りをあげ、氷が一護に向かって襲いかかる。そんな姿もまた、現実味のない、遠い世界の出来事のようだった。
(何故?)
ルキアは、もう何度目かもわからない問いを、もう一度心に浮かべた。
(どうして、こうなった?)
真実はまだ掴めない。この戦いの果てにそれが待っているというのなら、ルキアに迷いはなかった。
*
「ルキア!」
「姐さん!」
「コン、恋次……兄様!」
急に名前を叫ばれ、ルキアは瞠目した。しかし、振り返る余裕はない。それでも一瞬の隙が生まれ、ルキアは跳ね飛ばされた。口の中に血の味が広がる。力の差は歴然で、致命傷には至っていないものの、ルキアの身体は傷だらけだった。
「ルキア…!下がってろ!ここは俺達が戦、」
「断る!」
ルキアが鋭い声を上げた。誰一人、自分を邪魔することは絶対に許さない。
ルキアの剣幕に、恋次が動きを止めた。白哉は片眉を跳ね上げ、義妹を見つめた。
次の言葉を継げぬまま、迫り来る一護の攻撃を受け止め、小柄なルキアの身体が再び跳ねた。それでも、ルキアは袖白雪を杖に、立ち上がった。
「…兄様。お願いがあります。三秒間、あやつの動きを止めてください」
「わかった」
「それ以外は、手出し無用に願います」
「縛道の六十三、鎖条鎖縛」
白哉の縛道が、一護の動きを止めた。それと同時に、ルキアは一護に向かって駆け出した。一護は、自分の霊圧をぶつけ、無理矢理縛道の鎖を千切ろうともがいている。溢れる霊圧に鎖が耐えかね、みしりと嫌な音を立てた。
ルキアが一護に飛びかかる寸前、一護を戒めていた鎖が崩れた。一護の刀の先は、真っ直ぐにルキアの心臓を向いている。貫かれると思った直前、血のように赤い盾が一護の刀の軌道を逸らした。
「手を出すな!」
ルキアは反射的に吼えた。もう、声音を取り繕う余裕などどこにもなかった。
姿を隠して、自分達をずっと見張っていたに違いない存在が、了承した合図なのか盾を崩す。それを見て、ルキアは再び一護へと肉薄した。
「縛道の四!這縄!」
小さな蛇のようなルキアの縛道が、一護の手を捕らえた。簡単に弾ける縛道は、一護の動きを止めるためのものではない。
自分を迎え撃つ、一護の刀の行方が少しだけずれたのを確認すると、ルキアは一護の懐に飛び込んだ。一護の刀が脇腹を貫く。けれどそれこそがルキアの狙いで、文字通り身体を張って一護の刀を拘束したルキアは、己の刀の柄で、一護の仮面を叩き割った。
仮面が剥がれ、中から現れたのは、普段の一護とは真逆の、禍々しい顔をした虚だった。白と黒の反転した目玉が、真っ直ぐにルキアを見据えている。
「よう、死神」
ルキアの目に宿る光に、相手は満足したように口を歪めた。その首筋に白い刀の刃を押し当て、ルキアは押し殺すように囁いた。
「貴様に、聞きたいことがある」
「何だよ?」
一護と同じ顔をした虚は笑った。この虚は、ルキアの質問も、これから起こる出来事も、全てを知っているようだった。
「一護の記憶を消したのは……貴様か?」
死神代行の最後の日、交わされた僅かな言葉。別れを告げた後のあの言葉だけが、一護の記憶の中から真っ白に抜け落ちていた。
ルキアは、あの日、あの場所に咲いていた花の色まで鮮やかに覚えている。穏やかな風と空気の中、広がる水色の花。約束を見守りゆらりと揺れた、わすれなぐさ。